2007年12月25日火曜日

Olivero & Robutti (2007)

Olivero, F. & Robutti, O. (2007). Measuring in dynamic geometry environments as a tool for conjecturing and proving. International Journal of Computers for Mathematical Learning, 12, 135-156.

この論文は,Cabri などの動的作図ツール (DGS) における測定ツールがどのように利用されうるか分析したものです.特に,推測と証明におけるものを扱っています.なかなか面白いです.

論文では,まず測定の様式を規定します.ラボルドが昔から言っている,spacio-graphic と theoretical な世界(本論文では field の語が使われている)の間を,どっちの方向に移動させる測定であるかにより様式を二分します.そしてそれぞれの測定において,幾何の問題を DGS を用いて扱う際の測定の役割に応じてさらに細分し,合計で5つの様式を規定しています.データの分析では,これらの様式が実際に学習者による DGS の利用にいかに見られるか示しています.分析は若干大雑把な感じはしますが,まあ中心は理論的なものなので構わないのでしょう.

最初に思ったことは,これらの様式は DGS に特有のものですが,紙と鉛筆の学習環境においても似たもの(おそらく数が少ないかもしれないが)が考えられるのでは,ということです.この論文では,DGS の場合だけで,他の環境における測定に関する参考文献があまり出ていません.Chazan (1993) ぐらいです.あまりやられていない研究なのでしょうか?そんなことはない気がしますが.まあ具体的に何かを分析して確かめてみると面白いでしょう.

もうひとつ思ったことは,ラボルドの枠組みに関してです.この論文で用いられている spacio-graphic と theoretical な世界間の行き来は,昔から知っていましたが,改めて非常にシンプルで便利だと思いました.semiotic register とはまた異なった次元のものを,特に cognitive な視点から示してくれる感じがします.私も一度何かに使ってみようかと思います.ところで,この枠組みの仏語での参考文献は,有名な論文の Laborde & Capponi (1994) ですが,この論文を見ると英語でも色々出ているようです.Laborde (2004) に沢山出ているみたいです.これはまだ読んでいませんが,読んでみたいですね.本なので web でダウンロードできないのが面倒ですが・・・.

あと,この論文は,イタリア研究グループによるものです.以前の研究では,同様のことをドラッグ機能の場合で分析したそうです.イタリアの研究は,この論文のように数学的な本性をしっかりと考慮しているものが多く面白いです.数学が中心にあることがよくわかります.

追記:先々週あたりに数学教育学の研究における「規範性」についての議論があったのですが,それについてあとから思ったこと.近年のヨーロッパおよび米国の研究は,規範性を考慮しないものが非常に多い気がします.今回の論文ももちろんそうです.そんな中において,フランスの数学教授学やイタリアの研究の特徴は,特に米国の多くの研究と比較して,数学知識の分析を研究の中心に置いているところだと思います.

2007年12月1日土曜日

Bosch & Chevallard (1999): ostensif

Bosch M., & Chevallard, Y. (1999), Ostensifs et sensibilité aux ostensifs dans l'activité mathématique, Recherches en Didactique des Mathématiques, 19/1, 79-119, Grenoble : La Pensée Sauvage.

以前から ostensif って何だろうと思っていました.それがこの論文で扱われていました.全くちゃんと読んでいませんが(斜め読みもしていない),失念しないためにその意味だけを書いておきます.

les objets ostensifs は,知覚できる他人に見せたりできる物質的な対象を意味するそうです.一方, les objets ostensifs は,アイデアや直観,概念のような,見たり言ったり聞いたり知覚したりすることができないけど, institution には確実に存在する対象のことです.

これらの例として挙げられているのは,「log」 という表記や「対数」という単語は,前者であり,対数の概念や後者になります.何か問題を解いたりするときには,これら両方が使われる訳です.

2007年11月17日土曜日

Sierpinska, A. & Kilpatrick, J. (Eds.) (1998)

Sierpinska, A. & Kilpatrick, J. (Eds.) (1998). Mathematics Education as a Research Domain: A Search for Identity. Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

この本のいくつかの論文には,以前の記事で触れました.まだすべてを読んでませんが,最初と最後にある会議の議事録・まとめは非常に面白いです.フランスとアメリカの研究はあまり相容れなさそうです.異見が常に対立している感じでした(笑).そもそも,数学教育の研究の目的・対象・方法が,国によってこれだけ異なってくるというのは非常に面白いです.

印象としては,scientific という面では,やはりフランスが数歩前を行っている感じです.おそらく,数学の教授と学習に関する現象を説明する知識の構築というところに焦点が絞られているからだと思います.研究は,知識を積み重ねていくことを前提としていますが,100 年後 200 年後に,数学教育の研究がどうなっているのでしょう.科学的でない研究は,100 年前と変わらないことをやっている可能性があります.科学的であるはずのフランスの教授学的状況理論などは,どうなっているのでしょうかね.楽しみです.新たな理論の出現によって完全に否定されるか,古典力学と相対性理論の関係のようにもとの理論の有効範囲が明確になるか,だとは思いますが.

今日読んだ中で,少々ゴシップ的ですが,面白かったところ紹介します.数学教育というよりも心理学の研究だと思いますが,米国で 90 年代あたりからやられている研究で situated cognition というものがあります.以下,フランス人の反応です.ちなみに,下の GV は,フランスの有名な認知心理学者,兼数学教授学者です.

CM : 「そんなことはフランスでは 20 年前からやられている」
GV : 「situated cognition のアイデアは当たり前だ.当然ながらすべての知識は,状況に依存し,文脈がある.」

もう一点,面白かったところ.数学教育研究における理論と実践について,フランス人軍団がそれを明確に分けるのに対し,その他はその連続性を主張したそうです.議論の中で teacher-researcher と action-research という理論と実践の両方に関わる語が出たそうですが,その際,仏人軍団の一人がこれらを痛烈に批判したそうです.その際に出たアナロジーが以下です.

NB : 「自分本人の精神分析医になれないのと同様,teacher-researcher にはなれない」

私は,数学教授学寄りなので,その通りだと思いますが,他国の研究者は「本人だから知っていることがある」と teacher-researcher が必要のようなことを言っています.この点は,数学教育研究をいかなる「科学」として扱っているかの差が出ているように思えます.つまり,経験主義的に目に見える意識していることを収集して研究とする立場と,それらは illusion de la tranceparence としてそれらを統制している理論を発見する立場です.後者の立場の人にとっては,上の発言は,言い得て妙でしょう.

2007年11月10日土曜日

Vergnaud, G. (1983)

Vergnaud, G. (1983). Pourquoi une perspective épistémologique est-elle nécessaire pour la recherche sur l'enseignement des mathématiques? (Eds. J. C. Bergeron et al.) Proceedings of 5th PME-NA, Montréal: UQAM.

大分古い論文ですが,1983 年の PME-NA のプレナリーの論文です.モントリオールであったためか,この論文は仏語と英語の両方が論文集に載っています.ちなみに,古い PME と PMENA の論文はほとんど ERIC (http://www.eric.ed.gov/) に入っています.また,ERIC# は PME の HP (http://igpme.org/view.asp?pg=conference_proceed) で手に入ります.

この論文の内容は,数学教育研究に認識論的展望がなぜ必要なのか,それまでの心理学だけではなぜ限界があるのかを中心に述べています.ポイントは,問いもしくは問題が数学知識の中心であり,状況を分析することが必要である,というところです.従来の心理学が主体を分析してきたが,数学教育においては,それでは数学知識の性質を十分に考慮した分析ができないというわけです.おっしゃる通りです.そして結論は,「だから conceptual field を分析する必要があるのだ」とのことです.

ベルニョーは,フランス数学教授学の創始者の一人ですが,元々心理学者です(というか現在も心理学の研究所にいます).その心理学者が上のような発想で,心理学と離縁した数学教授学を盛り上げたというのは,面白いです.もしかしたら,これが本当のピアジェ系の流れなのかもしれません.そういえば,以前ピアジェ研究所の先生にお話をしてもらったときも,だいぶ数学教授学ちっくな認識論的要素が入っているなぁと思ったことがありました.

話が逸れましたが,フランス数学教授学のポスト初期段階の考えが見れて面白い論文でした.

2007年11月8日木曜日

Sriraman, B. and Kaiser, G. (2006)

Sriraman, B. and Kaiser, G. (2006). Theory usage and theoretical trends in Europe: A survey and preliminary analysis of CERME4 research reports. ZDM, Vol. 38, No. 1, 22-51.

typo の多い論文です(笑).ヨーロッパでの理論枠組みの流行を CERME4 の論文をもとに分析したものです.主な系統としては,UK のアングロサクソン系の理論枠組みおよび研究,フランス系,ドイツ系,イタリア系をあげています,その中でも,フランス系は特殊で話す言葉が違うことに触れています.他国系が経験的な手法に基づいた心理学的な言葉が多いのに対し,フランス系が「社会文化的理論」に基づいた言葉を使うとのことです.この「社会文化的理論」というのは,あまり正しくないですが,全体的な理論枠組み(おそらくパラダイム)が違うので,言葉が違うことは確かだと思います.

また,ある研究領域では,より均一の理論枠組みが用いられ,ある研究領域では非常に不均一であると言っています.おそらく研究として根底にある問題意識と研究対象の違いが大きいのだと思います.実際,研究領域にしても,より均一の理論枠組みが用いられている領域は,情意や Embodies cognition などフランス系ではあまり研究対象にならないもしくはなっていないものだったしています.

数学教育研究がより科学的な研究領域としてアイデンティティーを得るために,異なる理論枠組みを明確にすることを,これまで ICMI Study などでも取り組んできましたが,やはり難しいですね.一番の困難性は,その問題意識と何をもって「科学的」とするかの部分だと思います.明らかにアメリカ系の「科学的」とフランス系の「科学的」は異なります.この困難性の克服のためには,理論の違いを自らのパラダイムに基づいて理解し,認め合うのだけでなく,その根底のところを相互理解できるようにすることが必要なのでしょう.

2007年10月31日水曜日

Houdement & Kuzniak (2006)

Houdement, C. & Kuzniak, A. (2006). Paradigmes géométriques et enseignement de la géométrie. Annales de didactique et de sciences cognitives, Vol. 11, 175 - 193.

Kuzniak の論文を初めて読んだ(ちょっと斜め読みだったけど).幾何のことをやっていることは前々から知っていたけど,なぜか論文を読む機会がなかった.

この論文では,Kuzniak の espace de travail geometrique という枠組みと,それらが参照する異なる幾何パラダイムという考え方を用いている.前者は「幾何活動領域」とでも訳すのだろうか.学習者が解く問題によって(特に学年によって)異なった espace で活動することが求められることを示している.例えば,小学校段階では,多くの場合,描かれているもの(signfiant)が学習の対象となっているパラダイム Geometrie I を参照する espace で活動することが求められる.すると「だいたい平行」という表現などが生じる.

おそらく,これまで幾何の区分は,「プラグマティックな幾何」と「演繹的幾何」「形式的な幾何」など,比較的曖昧に用いられてきたと思う.その線引きをパラダイムという語を用いてはっきりさせている感じ.必ずしも新しいことではないけど,特に小学校から中学校への移行期の幾何の分析に便利だと思う.

RDM と ESM にも関連する論文が出ているみたいなので,今度読んでみよう.

2007年8月16日木曜日

Kang & Kilpatrick (1992)

Kang, W., & Kilpatrick, J. (1992). Didactic transposition in mathematics textbooks. For the Learning of. Mathematics, 12(1), 2-7.

だいぶ前にこの論文について触れられているものを読んだ.米国でもフランスの数学教授学を中心に据えた研究があったのかと思い,一度読もうと思っていたのをやっと今日読んでみました(余談:FLM はネットで手に入らないから面倒).

論文は,教授学的変換(教授学的置換:まだ訳語がどっちがいいか迷っている)の視点から教科書や授業での変換プロセスを分析したもののまとめでした.後半の方は,ブルソーのいろいろな現象(トパーズ効果やメタ認知シフトなど)を教授学的変換の視点から例を挙げながらどのような変換プロセスがあるか示していました.

内容自体は普通でしたが,一ヶ所「そう言えば」とちょっと考えたところがありました.それは教授現象の一つである formal abidance (ブルソーの語では,metamathematical shift)の例のところです.著者はこの現象の例として一般から特殊への教授法をあげており,一般から特殊に基づいた教科書が米国で19世紀に出版されていたことに触れられています.参考文献は,Rash (1975) です.

ここで思ったのですが,米国の教科書を見ると,幾何も代数も高校では,どうもまだ一般から入っているように思えます.おそらく教科書自体の数学を厳密にするためなのかもしれませんが,子どもは覚えることがたくさんあって大変そうです.例えば,この論文でも指摘していますが,代数計算に関して最初に公理がその名前とともに与えられているなどです.そのため,こっちの高校生は「結合法則!」とか「分配法則!」などの言葉を意外とよく覚えています.
一方,「一般から特殊」を考えてみると,1960年代の数学教育の現代化も言ってしまえば,同じ現象を推進していたように思えます.一般から特殊の代わりに抽象から入りましたが,ほぼ同じことではないでしょうか.数学自体の出来上がった形 (formalise されたもの) が一般的で様々なものに適応できることを考慮すれば,一般から入った方が学習が速いと思うのはよくあることなのでしょう(もちろん意味の理解は伴いませんが).

Boero & Szendrei (1998)

Boero P. & Szendrei R. (1998). Research and results in mathematics education: some contradictory aspects. In A. Sierpinska & J. Kilpatrick (Eds.) Mathematics Education as a Research Domain: A Search for Identity (pp. 197-212). Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

ICMI Study の一環としてまとめられた書籍の一論文です.イタリアの大御所の先生とハンガリー人の共著となっています,この論文では,数学教育の研究の立場が,他国においても日本と似たり寄ったりなのがわかります(10年前の話ですが).そして,数学教育が一つの学問領域となり,かつ数学教育の実践に貢献するために,どのようなことが必要なのか「私見」が述べられています.著者は「私見」と言っていますが,その内容は数学教育研究一般に対して言うことができ,多くの国において必要なことだと思いました.

話を進めるにあたって,数学教育研究を以下の四種類に分けています.

- innovative patterns
- quantitative information
- qualitative information
- theoretical perspectives

簡単に説明しますと,Innovative patterns は,実践研究です.新たな指導法を考え,実践し,うまくいった!のように教師を対象とする実践雑誌に出ているようなものが想定されています.quantitative information は,学力調査のような量的・統計的な研究を指しています.qualitative information は,より詳細な質的な分析による研究を指します.そして最後の theoretical perspectives は,教授や学習の現象を説明するための理論やモデルを構築するといった研究です.最初の二つには pragmatic な数学教育を良くするといった直接的な目的で進められることが多く,あとの三つはより基礎的な科学的目的からなされることが多いとのことです.

この枠組みからみると,日本の多くの研究は,最初の二つ半ぐらいの研究が多いように思えます.三つ目の範疇に少し入るものでも,どうも「~を大事にしたい」「をすべきだ」などのイデオロギー的なものが多く,学問的になりきれていない感じがします.

話がずれましたが,本論文では,数学教育を一つの特定の研究分野にするために,学問的研究の範疇に入り得ていない innovative patterns の研究結果と,教師や数学者に対して数学教育研究を説得するために十分でない theoretical perspectives による研究結果の両方が必要であろうと述べています.実際, innovative patterns の研究結果として「~式指導法」「~式学習法」など様々な方法が発明されますが,それらがよいとする理由は曖昧です.一方,theoretical perspectives の研究は現象等のメカニズムを説明する理論構築を進めていますが,それだけでは無用の長物です.それがうまく説明できるものであることを示さなければなりません.つまり,前者を後者で説明,説得できれば,数学教育研究が一学問分野としての位置づけがはっきりしてくるという訳です.その際,難しいのは,専門用語をあまり用いずにいかに教師や数学者の言葉で説明するかと著者は言っていますが,その通りでしょう.努力が必要です.

2007年6月28日木曜日

Cevian

今日習った単語, cevian です.
三角形の頂点を通り対辺と交わる直線らしい.
中線とか,角の二等分線,なども含まれます.
日本語では名前がついているのでしょうか?

2007年6月19日火曜日

Kilpatrick, J. (2003)

Kilpatrick, J. (2003). Twenty years of French didactique viewed from the United States. For the Learning of Mathematics, 23(2), 23-27.

以前に触れた Gascon の論文と同じ号にこんな論文がありました.フランス数学教授学の米国への影響について書いています.これは,フランス数学教授学誕生20周年記念会議で発表された 1994 年の仏語論文の英訳です.少し古い論文ですが,10年たって FLM に載っていました.10年経ってというところが面白いですね.つまり,10年経ってもあまり現状が変わっていないってことではないでしょうか.

この論文では,アメリカ人研究者がフランス数学教授学に触れた際の正直な反応が書かれています.やはり,理論的な面と,数学的なアイデアがたくさんあるところが大変なようです.予想通りです.また,didactics という言葉について英語(米語?)での印象などにも触れている点は,参考になりました.didactics という語が米国であまり用いられない理由がわかります.

特に面白かったのは,引用されているフランスの古い文献です.主に二つ目につきました.一つ目は,フランスの200年前の数学教育に関する文献,二つ目は,200年前くらいにフランス人から見たアメリカの研究(数学教育には限らない)についての文献です.前者では,フランスでの数学教育の歴史が長いことがわかります.一方,後者は,数学教育に限らないことですが,アメリカがプラクティカルな側面に強く,あまり理論的なものを発展させないということに触れています.これは,私も個人的に思っていたことで,200年前から認識されていたことなのだと,びっくりしました.ところで,このプラクティカルな面が強いのは,日本も同じですね.

ちなみに,Kilpatrick は,アメリカの研究者として有名ですが,フランスの数学教授学を非常によく知っている人のようです.フランス関係のものでもいろいろなところで出てきます.もう少し読もうかなって感じです.

2007年6月5日火曜日

Inscribed Angle Theorem

日本語では,「中心角の定理」でしょうか?今日,アメリカの教科書でこの定理を見てびっくりしました.それは次のような定理です.

「円に内接 (inscribed) した角の大きさ (measure) は,切られる弧の大きさ (measure of its intercepted arc) の半分に等しい」

ここでびっくりしたのは,「弧の大きさ」という語です.「弧の長さ」ではありません.そして,「弧の大きさ」とはなんだろうと思って,数ページ前を見てみると,「弧の大きさ」が中心角の大きさで定義されていました.したがって,「弧の大きさ」は 30 度というふうに与えられるのです.

なんか非常に違和感があります,上の定理では,角の大きさと弧の大きさの異種の量を比較していますが,長さと体積を比べているような感じがして非常に気持ち悪いです.弧に長さ以外に別の測度を与える意味はなんなんでしょう?別に必要なら新たな測度を導入するのは構いませんが,どんな必要性から生じたのでしょう?弧度法をうまく導入するための準備でしょうか?

追記(2007/6/6):この定理,台湾人に聞いたら,台湾も弧の大きさ (measure) ってのがあるって言っていました.なんでだろう,もしかしらユークリッド原論では,「弧の大きさ」が定義されているのか?でも,同じ定理を確認してみましたが,「中心角」を使っています(参考:Edited by Todhunter, Introduced by Heath, Book III, Proposition 20).まだ謎です. 

追記(2007/8/21):「弧の大きさ」についてですが,ちょっとわかりました.球面幾何学(特に球面三角法)では,辺の大きさは球の中心角の大きさで表すのです.実際,球面はどれも相似なので,普通の三角法のときの単位円と同様に,単位球のようなもので考えれば十分なのです.すると辺の大きさは角度で与えておいた方が球面で三角法を扱うには便利なようです.とすると,上の米国の円での「弧の大きさ」は単位円に慣れ,球面三角法への布石なのでしょうか?まだちょっとよくわかりません.

Gascon, J. (2003)

Gascon, J. (2003) From the Cognitive Program to the Epistemological Program in didactics of mathematics. Two incommensurable scientific research programs? For the Learning of Mathematics, 23(2), 44–55.

この論文は,昔に見つけて,読もうと思いながらも,簡単に眺めただけで終わっていたものです.内容は,数学教育学研究における近年のアプローチを分析したものです.Gascon は,アプローチというよりもラカトシュの研究プログラムという語を用いています.タイトルにある,「共約不可能」の語もラカトシュから援用したものです.

まず,数学教育学の研究が,大きく分けて二つの研究プログラムによってなされているとします.認知論的プログラムと認識論的プログラムです.前者は,英米をはじめとしてこれまでの多くの数学教育学研究が進められてきた研究プログラムで,後者は70年代以降のフランス数学教授学のアプローチを指しています.そして,それぞれのプログラムの前提条件やプログラムによって導かれる問い・問題などを比較しています.

ここで問い・問題というのは,Balacheff (1990, JRME) で強調している problematique です.つまり,数学教育の実践から感覚的に導かれた問いや問題(「証明をいかにうまく教えるか?」など)ではなく,研究の大前提となる理論や枠組みから導かれる問いや問題のことです.Gascon は,それぞれの研究プログラムから problematique を導き出し,いかに異なるか示しています.これから,研究プログラムが非常に異なることがわかります.最も異なる点は,ハードコアの部分で,私が常に触れている点ですが,数学知識を明らかとしているか,数学知識自体を illusion of transparency として問い直しているか,という点です.

論文では,認知論的プログラムを三つのパースペクティブに分け,それぞれの問い・問題を導いていますが,勉強になります(私にはちょっと難しかったですが).特に,自分の研究のアイデンティティーを知り,説明できるようにするためには,重要だと思います.

追記:「認知論的プログラム」と「認識論的プログラム」という呼び方は,なかなかいいです.以前の「知識志向型研究」と同様に使わせてもらいます.

2007年5月26日土曜日

Margolinas C. (1998)

Margolinas C. (1998). Relations between the theoretical field and the practical field in mathematics education. In A. Sierpinska & J. Kilpatrick (Eds.) Mathematics Education as a Research Domain: A Search for Identity (pp. 351-356). Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

この論文の入っている本は,ICMI Study の一環で発行されているものです.それぞれの論文は非常に短いのですが,世界で第一線の研究者が数学教育の研究とはどういうものか議論しており,なかなか面白いです.

Margolinas の論文は,フランスにおける研究と実践との関わりを紹介したものですが,最初に示した研究と実践を捉える枠組みが面白かったのでそれだけ紹介します.それは次の図式で示されます.

Opinion -- Statement -- Fact/Phenomenon -- Theory -- Paradigm

左の方が実践においてよく見られるもので,右の方が研究に見られるものです.ここで Fact (事象)とPhenomenon (現象)は同じ「もの」を指していますが,数学教育学の理論によって説明可能な再生可能な fact を現象と呼んでいます.数学教育を科学として発展させるためには,theory を構築しなければならないわけですが,様々な事象の中に科学としての現象を認めなければならない訳です.

論文で出てくる例で紹介しよう.教師の「生徒が極限の概念に困難性を覚える」という statement があったとする.この statement は統計調査などを行なえば,確かめることはできるであろう.つまりこれは事象である.しかし,理論によってなぜか立証されない限り現象にはなり得ないのである.

追記:2007/08/20 に修正.fact と phonemenon の訳には「事象」と「現象」が適切なのだろうか?おそらくフッサールなどの哲学から来ているからそれをチェックしなければ.

2007年5月22日火曜日

Coordinate plane

米国の教科書で,座標平面における軸や数直線は,しばしば <------> という風に両側に矢印がついています.日本の数学に親しんでいる人には,奇妙に感じると思います.数値がどちらに行けば,大きくなるかこれだけではわからないからです.つまり,数直線が方向を持った直線であることが少し曖昧になります.

なんでこんなのを使うのかと思っていたのですが,おそらく幾何においては,直線を <------> と描き,半直線を ------>,線分を ------ と描くからだと思います.つまり数直線は直線だと主張しているのでしょう.数直線が直線であることが方向を持った直線であることより重要であるとは,あまり思えませんけど,そういった方針なのだと思います.

半直線は,ベクトルとも混乱しそうです.これは実際,図形表記だけでなく,文字表記でもベクトルとまったく同じように表記します(AB の上に矢印;直線の場合は両矢印).アメリカの高校でベクトルはやらないので,問題ないのかもしれませんが,奇妙な習慣に見えます.

2007年5月21日月曜日

Barbe, J., et al. (2005)

Barbe, J., Bosch, M., Espinoza, L., & Gascon, J. (2005). Didactic Restrictions on the Teacher's Practice: The Case of Limits of Functions in Spanish High Schools. Educational Studies in Mathematics, Vol.59 No.1-3, 235-268.

シュバラールの「教授学の人類学的理論」を用いて教師の実践における制約を分析したものです.ここで制約とは,数学知識を教えようとする際の,知識そのものによる制約です.事例としては,関数の極限を扱っています.論文は,具体例も多く非常に読み易いです.思うに,このスペインの研究グループは,いつも非常にわかりやすく説明してくれます.Bosch の講義を何度か聴いたことがありますが,そのときもそう思いました.この論文で,シュバラールの最近の理論をより深く理解できるかと思います.

論文の内容は,これまでの研究結果をまとめたものという感じで,盛りだくさんです.Praxeology を使って,関数の極限の学習に関わる基本となる数学的な枠組み (reference mathematical organisation) をうまく記述しています.教師の実践を単に実践そのものから分析しているのではなく,数学知識の視点から分析しているのです.この数学知識を特徴付ける,理解することをしっかりおさえているところが,アメリカの研究にはほとんどなく,フランス数学教授学の特徴であり,非常に重要なところです.このような枠組みなしに実践を分析すれば,経験主義的な描写しかできず,教師の行動や選択などに知識の側面から十分な意味を与えることができません.たとえ何かしらの意味を与えられたとしても,数学知識に関係ないものであったり,主観的なイデオロギーによって教育実践やさらには教師個人の良し悪しなどの議論程度になりかねません.

関数の極限に関しては,スペインの高校数学のカリキュラムでは,知識部分が空な「極限の代数」の praxeology と実践部分が空の「極限のトポロジー」の praxeology が分離して扱われており,いくら教師が努力しても,極限計算の手続き的なもの(実践部分)に十分な意味を与えることができないことを示しています.また最終章では, "hierarchy of levels of co-determination" の視点から,テーマ的な制限 (thematic confinement) が実践への制約を生んでいることも示しています.そう言えば,個人的なことですが,"hierarchy of levels of co-determination" は,2001年のサマースクールでシュバラールによる講義を聞きましたが,そのときはあまりよく理解できませんでした.この論文で大分理解できました.感謝.

2007年5月15日火曜日

Laborde, C. (2007)

Laborde, C. (2007). Towards theoretical foundations of mathematics education. ZDM, 39 (1-2), 137-144.

前回の記事の追記に少し書いたように,ZDM で "Didactics of mathematics as a scientific discipline - in memoriam Hans-Georg Steiner" という特集を組んでいました.その中の論文で,フランスの Laborde のものがなかなか面白かったので簡単に紹介します.

この論文では,フランス数学教授学のこれまでの変遷を理論に焦点を当てて紹介しています.極力,ドイツの数学教授学と関連づけているところがなかなか面白いです.フランスとドイツの両数学教授学は,たま~に共同の会議を開いて交流を図っていたようです.今回の特集には,フランス数学教授学の研究者は,Laborde しかいませんが,Straesser の論文を見るとフランスに影響を受けているのがよくわかります.

論文自体の内容は,コアとなる数学知識の研究が不変(普遍?)のものとして常に中心にある一方で,研究の焦点が少し変わってきたことを紹介しています.それは,ミクロレベルの研究とマクロレベルの研究の関係がだいぶ確立されてきたという点と,授業設計よりも通常の授業が分析対象になってきたという点が上げられています.前者は,教授学的状況理論と教授学的置換理論がだいぶ補完しながら分析ができるようになったことにあります.後者は,私の知っている2000年頃からそうでしたし,フランス数学教授学の理論は授業を理解するための道具なので,その利用方法は当然かもしれません.でも,さらに根本的な,数学教育の現象のメカニズムに研究の対象がいっているのかもしれません.

その他,数学教育の ICT 利用にも触れています.もちろん研究レベルの話しですが,近年よく用いられる分析枠組みで artefact, instrument などにも触れています.ヴィゴツキーを発展させた Rabardel の枠組みは,tool の利用には非常に便利なものですが,日本ではまだ知られていないようです.多くが英語で書かれているので日本人でも読めないことはありません.

2007年5月11日金曜日

Strasser, R. (1994)

Strasser, R. (1994). Introduction to chapter 3: Interaction in the classroom. In R. Biehler, R. W. Scholz, R. Strasser, B. Winkelmann (Eds.) Didactics of Mathematics as a Scientific Discipline (pp.117-120). Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

これは論文ではなく,編集者による一つの章「教室における相互作用」のインントロダクションです.そのため特別の内容があるわけでもなく,その章の論文の解説・紹介をしているだけです.しかし,個人的に,このイントロとそのあとのいくつかの論文に興味深いところがありました.いくつかの論文というのは,フランス数学教授学のことを扱っているフランス人の Laborde とイタリア人の Bartolini Bussi それぞれの二本の論文です.興味深かった点は二点あります.

一つ目は,両者の論文において,フランス数学教授学が参照される際に,わざわざ didactique des mathematiques の語を用いているところです.この書籍は,Didactics of Mathematics as a Scientific Discipline というタイトルだし,英語の書籍なので英語を使えばいいのですが,フランス人もイタリア人も仏語を用いています.ドイツ人の言う数学教授学とフランスの数学教授学が異なるものだと二人の筆者が認識していることが見て取れます.

二つ目は,Strasser がイントロで使っている言葉です.フランス数学教授学のアプローチを "knowledge-oriented approach" (p.119) など "knowledge-oriented" の語を使っています.これは言い得て妙だと思いました.確かにその点が他国のアプローチと非常に異なる点の一つです.Strasser 自身,フランス数学教授学のことを非常に良く知っている人です.日本語だと「知識指向型アプローチ」と言えるかと思います.今度使わせてもらいます(謝).


追記 (2007/5/11):この著者の名前ですが,英語表記すると本当は Straesser のようです.a にウムラートがつくと ae に相当するみたいです.ドイツ雑誌の ZDM ではそうなっていました.たまたま今日見つけたのですが,ZDM の 2007 年の 39 号にこの本とほぼ同じテーマでかつ執筆者も似た面々で特集が出ています.あと,いつの間にか ZDM もSpringer の website から発行されるようになったのですね.

2007年5月9日水曜日

Rav, Y. (1999)

Rav, Y. (1999). Why Do We Prove Theorems? Philosophia Mathematica, (3) Vol. 7, 5-41.

この論文は,数学哲学のものですが,なかなか面白かったです.数学における証明が,コンピュータのプログラムのような無味乾燥なものでなく,非常に人間的なものであることを示しています.定理を証明する過程においていかに数学知識が発展するかいくつかの例で示しているところなども,ラカトシュの『証明と論駁』みたいでなかなか面白かったです.

この論文の中で特にポイントになるのは(私にとって),形式的な証明である Derivations と一般に数学者などが与える Conceptual proofs の区分だと思います.それぞれに対応するように,数学基礎論のような演繹的に「整合性 (consistency)」のあるフォーマルな理論と,数学基礎論以外の多くの分野のような意味などにおいて「一貫性 (coherence)」のあるインフォーマルな理論に区分できるというのは,確かにと思いました.摩天楼の基盤と宇宙船の作成のメタファーもわかりやすかったです.

このことを数学教育の研究に照らして考えてみると,フランス語では,prove と demonstration という二つの語があり (e.g., Balacheff, 1987),上の区分に一応対応する感じがします.それぞれの違いは, Duval (1991) などによりまたちょっと違った視点から示されています.そこでちょっとした疑問は,これらは本当に対応するものなのだろうか?ということです.実際,対応するのであれば,なぜ Rav はフランスの人なのに demonstration の語を用いなかったのだろう?学校教育における demonstration の利用が数学者社会の proof と同じように思えたからだろうか?それとももっと機械的に導かれているニュアンスを出したかったのだろうか?

2007年5月5日土曜日

Chevallard, Y. (198?)

Chevallard, Y. (198?). The Didactics of Mathematics : Its Problematic and Related Research. Recherches en didactique des mathematiques, 2(1), 146-158.

1980 年に開催された ICME 4 (Berkeley) で発表した論文だそうですが,RDM に掲載されているとのことです.しかし,ネットで調べたところ本当に英語で出ているのかちょっとわかりませんでした.そういえば,シュバラールの論文の多くは, http://yves.chevallard.free.fr/ にアップされているので簡単に入手できます.最近は雑誌の多くが電子化されていて,かつ大学がその会員になっているので,ほとんどネットでこと足ります.

この論文は非常に古いものですが,非常にわかりやすくフランス数学教授学がどのような学問なのか説明しています.短いので簡単に読めます.フランス数学教授学が70年代に形作られてきたとき,それがこれまでの教育学 (pedagogy) と何が違い,なぜそれが必要か,その説明が必要だったために書かれたものだと思います.

具体的な内容は,昔の教育学と比較し,かつ他の学問分野の発展の歴史を参考にしてフランス数学教授学の問題意識を説明しています.例えば,昔の教育学では,デュルケムやピアジェ,ブルーナーらに見られるように教育の理論や研究と言っても規範的 (prescriptive and normative) なもの,つまりデュルケムの言葉を使えば "practical theory" が主に扱われてきました.一方,兵器などの発展の歴史を参照すれば,ダビンチのような技術だけでは明らかに不十分で,即効性はなく遠回りになるかもしれないがガリレオのようなより科学的なもの(物理学)が必要になります.それを教育で考えると,"practical theory" ではなく教授学が必要になるということです.後半には,教授学的置換や教授学的契約の例も簡単に出てきます.

2007年5月4日金曜日

Chevallard, Y. (1999).

Chevallard, Y. (1999). Didactique? Is it a plaisanterie? You must be joking! A critical comment on terminology. Instructional Science, 27(1/2), 5-7.

数ヶ月前に一度読んでいたのに,また発見しました(忘れていた).これは論文というよりも3ページのちょっとしたコメントです.でも意外と面白い,かつ重要な裏話的なものです.

専門用語についてですが,それも「フランス数学教授学」そのものの英語表記についてです.この頃 (1999年頃) まで英語で表記する際に didactique の語を英語の didactics に訳さずそのまま使っていることがよくありました.例えば,Brousseau (1997) の『教授学的状況理論』の英語版では didactique を使っています.これは,フランス数学教授学が,通常の訳の「教授」やドイツの「教授学」のような意味で取られると嫌だからということに起因します.確かにフランスのものは,その問題意識や手法からして通常の mathematics education 研究とは異なるのでその気持ちはわからないでもありません.

この論文でシュバラールが言っている論拠もまあその通りかなって感じがします.つまり,他の言語との兼ね合いもあるし,そもそも他の分野(economy や geography など)でも科学的な学問分野と実際的な側面と両方を意味することを考えれば didactics の英訳でよいとするものです.

ちなみに,ブルソーも最近は didactics を使っています.確か PME30 のプレナリー論文だったと思いますが,言語学等の他の分野を見習って didactics を使うと言っていました.

シュバラールのこの論文では,もうひとつ専門用語の訳に触れています.そう彼の理論である「教授学的置換」の英訳です.こっちは,意味が変わってしまうといけないから,transfer (移動や変換など)ではなく transposition (置換)なんだとさ.

追記(2007/06/23):上のブルソーのことに関してですが,プレナリーの論文ではなく,発表の資料でした.Warfield のサイトから入手できます. http://www.math.washington.edu/~warfield/Didactique.html

2007年4月10日火曜日

Sensevy et al (2005)

Sensevy, G., Mercier, A., Schubauer-Leoni, M-L., Ligozat, F. & Perrot, G (2005). An attempt to model the teacher's action in mathematics, Educational Studies in mathematics, 59(1), 153-181.

この論文はなかなか面白かったです.フランス数学教授学の人たちなので,枠組みがしっかりしているし,数学知識が常に中心にあります.

論文は,数学教師の行為をうまく捉え分析するモデルを示すことを目的としています.そのモデルとは,次の3つのレベルの分析によって教師の行為を記述するものです.ちなみに分析の事例には,ブルソーの有名な "race to 20" を題材にした二人の教師の授業が利用されています.

1: mesogenesis, chronogenesis, topogenesis
2: 契約と milieu の関係
3: 教師の信念と通常の指導法

分析の枠組みがキーポイントかつ面白かったで,これらの段階を簡単に説明します.第一段階は,シュバラールの教授学的置換理論で出てくる chronogenesis と topogenesis,それと Mercier (多分)の mesogenesis を分析の視点として採用し,教師がいかなるテクニックを用いてそれぞれを制御するか示すものです.この mesogenesis は僕は初めて知ったのですが,いかに milieu を作るか,いかに milieu を新しい milieu に置き換えるかという数学教授の非常に中心的なところに視点を当てさせます.「milieu の devolution」というおおざっぱな過程を chronogenesis, topogenesis から切り離して milieu に焦点を当てている感じだと思います.そのため分析のスケールは非常に小さいものになります.

第二段階は,ブルソーの教授学的状況理論でおなじみの教授学的契約と milieu の関係を分析の視点として,第一段階の視点よりも少し大きなスケールで教師の行為を記述します.

第三段階は,授業のビデオを見せながら教師へインタビューすることによって第一段階や第二段階で見られる教師の行為の背景を示すものです.この段階の記述は非常に一般的な教師の考え(信念)が示され,必ずしも数学知識そのものに制約を受けた考えとは限りません.

確かにこれらの三つのレベルで教師の行為を記述すれば,数学知識との繋がりをある程度詳細に示せる感じがします.シュバラールとブルソーをうまく融合した感じでしょうか.でもシュバラールの praxeology や didactic organization などとの関係はどうなるのでしょう?必要ないのか?


論文の趣旨からは逸れますが,二人の教師による授業の違いがなかなか面白かったです.それぞれが生徒に対して与えたゲームの性質が非常に異なることがわかります.一人目の教師は,ゴールが勝つことのゲームとその方法を探すことのゲームを順番にうまく与え,生徒は後者のゲームをうまくプレイできています(つまり situation of action から situation of formulation にうまく移行している).一方,二人目の教師は,最初からゴールがその方法を探すことのゲームを与えてしまったので(situation of action が situation of formulation と合体してしまった),生徒が十分に勝つことを目的としたゲームをプレイできず,なかなか厳しい授業になっています.

ところで,最近米国の研究と比較してもう一つこの論文のような研究が好きな理由がはっきりしてきました.それは,数学教授の現象や教師の考えを,米国の研究が非常に emic に記述しようとするのに対し,数学教授学が常に ethic に記述しようとするところです.数学教授学の目的は教授・学習を説明することが可能な理論を構築することなので,ethic な記述をするのは当然です.いくら emic に現象や考えを記述しても,そのメカニズムや現象を生む理由を記述できる理論はなかなか出てこないと考えます.一方,米国の研究は emic 好きです.grounded theory の利用などもその現れだと思います.

2007年3月31日土曜日

Leinhardt & Ohlsson (1990)

Leinhardt, G. & Ohlsson, S. (1990). Tutorials on the structure of tutoring from teachers. Journal of Artificial Intelligence in Education, 2(1), 21-46.

この論文の著者は,必ずしも数学教育の研究が中心では,数学教育を題材に教師の意思決定 (decision making) などを研究しているようです.まあ有名人のようです.

論文自体は,教授 (teaching) を分析し,「よい」授業をデザインするための根本原理を導き出すというものです.雑誌自体が,AI 関係なので,AI でも使えるような根本原理ということです.論文では,数学の内容そのものに関わる教師の行為ではなく,数学の授業における様々な活動を促し,授業全体を組み立てる教師の行為(boundary marker などの meta-communication)を主な分析対象としています.データは,いくつかの基準で選ばれたエキスパート教師の授業からです.

第一印象は,数学の内容がないし,いくつか気になる点があり,あまり好きじゃない論文,でした.もっとも気になった点は,「よい授業」の存在とエキスパート教師の存在を仮定しているところです.「よい授業」に対する考え方が国や文化によって異なる(前回の記事参照)ことを考えれば,少なくとも「よい授業」は「アメリカにおいて」を付けなければ意味をなさないでしょう.そして,米国の授業があまり各国の関心を寄せ付けないとすると,分析したデータとそこから得られた結果はどの程度の説得力のあるものなのだろうか?と思いました.

その後,この論文に対する考えは,あまり変わっていませんが,色々考えるきっかけにはなったようです.主に考えたは,研究アプローチについてです.この論文では,数学教授学とアメリカの数学教育研究一般の違いが非常によく出ており,それぞれを位置づける一つの理解方法が少しわかった気がしました.もちろんこの論文自体は,数学教育研究の雑誌に投稿されたものではありませんが,この論文のような手法を使っている数学教育の研究がアメリカには多いのです.

論文では,教授過程,もしくは進行を結果的にはモデル化していますが,そのような研究結果は,数学教授学にもアメリカにも色々あります.例えば,数学教授学では,ブルソーの教授学的状況理論やシュバラールの organisation didactique がそれにあたるでしょう.米国の研究でも, scripts や ideal event などがそれにあたると思います.後者の研究手法は,今回の論文と似たようなものです.そこで,両者の研究アプローチを考えてみると非常に大きな違いがあることがわかります.もっとも大きな違いは,このような教授をモデル化する際にどこを出発点にするかということです.数学教授学はもちろん「知識」を出発点にします.知識を分析することにより,教授においてどのような行為が必要になるか考えます.そのため,導き出された結果は,知識に特有の結果になります.一方,アメリカの場合は,知識とは関係なく,とりあえず授業そのものから教師の行為から出発します.そして,なんとか教師の教授という行為をモデル化・理論化しようと努めます.この場合,拠り所を明確にするのが大変です.そのため,この論文でも取られた手法のように「よい授業」や「エキスパート教師」の存在を仮定しなければならなかったり,数学教育以外の領域の理論(言語学,民俗学,社会学,activity structures など)を持ってくる必要が生じるのでしょう.

まとめると,「知識 --- 教授」という図式(上下に考える「教授」が上)があるとすると,アプローチの方向がまったく逆なのだと思います.数学教授学は,ボトムアップでモデル・理論を構築しようと努め,米国はトップダウンで同じことをしようとしていると捉えられます.もしかしたら同じモデルに行き着くのかもしれません.個人的には,僕はボトムアップの方が好きですね.トップダウンの場合は,その論拠を示すのが難しそうです.

2007年3月29日木曜日

Jacobs & Morita (2002)

Jacobs, J. K., & Morita, E. (2002). Japanese and American teachers' evaluation of videotaped mathematics lessons. Journal for Research in Mathematics Education, 33, 154-175

非常に読みやすくスピーディに読めました.アメリカの教師と日本の教師の考える理想的な授業に対する考えを分析したものです.それぞれが非常に異なる考えを持っていることがわかり,なかなか面白いです.

研究の方法は,それぞれの国で撮ったビデオをそれぞれの国の複数の教師に見て批評してもらうというものです.データの分析自体は,scripts や米国人の好きな grounded theory などが用いられており,数学知識との関係で構築された理論は用いられていません.まあこれが数学教授学と異なる点ですが,アメリカなのでしようがないでしょう.

実験の結果で,日本の教師による米国の授業の理想的な側面が得られなかったというのは,そうだろうと思います.もちろんどのような授業が理想的であるかは,時代によっても異なり,学習そのものの理解の仕方によっても異なり,明示するのは難しいですが,少なくとも現在の日本人にとっては現在の米国の授業は理想からほど遠いのは確かだと思います.私も米国に来ていくつか授業を見ましたが,個人的な善し悪しの観点からすれば,どれもひどいなぁ,というのが感想です.授業が複雑かつ曖昧で,何をしたいのかよくわからないものが多かったです.子どもたちより数学を知っている見学者がわからないのだから,子どもがわかるわけありません.

とまあ授業に対する個人的な批判はおいておいて,論文自体は,数学教授学の範疇に入るものではありませんが,米国の数学教育研究においてよく見られるタイプのものです.数学教授学では,研究をより科学的にするために,数学そのものをより深く分析します.一方,米国では,研究をより科学的にするため大量のデータと統計的手法を用いることが多いようです(最近?).そのためか,数学そのものの分析は少なくなり,他分野(認知心理学等)の研究者でも研究できそうな印象がしてしまいます.

2007年3月15日木曜日

Simon (1995)

Simon, M. A. (1995). Reconstructing mathematics pedagogy from a constructivist perspective. Journal for Reserch in Mathematics Education, 26 (2), 114-145.
Steffe, L., & D'Ambrosio, B. (1995). Toward a working. model of constructivist teaching: a reaction to Simon. Journal for Reserch in Mathematics Education, 26 (2), 146-159.
Simon, M.A. (1995b). Elaborating models of mathematics teaching: A response to Steffe and D'Ambrosio. Journal of Research in Mathematics Education, 26 (2), 160-162.


読み始めて,特に最初の方にいくつか共感する部分があり面白そうだと思った.まあ最後の方の hypothetical learning trajectory などの教授モデルはおいておいて,それなりに面白い論文だった.

共感した部分は次の2点:
第一に,構成主義が単に学習(教授ではない)がいかになされるかという見解 (tenet) でしかないととらえていること.それはまったくその通りだと思う.いつからかどこから構成主義が変に解釈されて,教授法の一つみたいに考えられてきた.おそらくアメリカもしくは英語圏で多かったのだと思う.フランスではそんなことは全くなかった.原文を読み,当該者と議論できる環境だとそういうことは起きないんじゃないかな.実際,誰もピアジェを教育学者だとは思ってない.

第二に,フランスの数学教授学研究をある程度把握していること.これはちょっと個人的な好みになるが,やはり理論面は進んでいるので,いいことです.

いくつか思ったこと:

シェーム (scheme) に関して
長方形のテーブルを長方形の単位で面積を測る問題 (Turned Rectangle Problem) で学生がなかなか理解できなかったことが取り上げられている.この点に関しては,Steffe & D'Ambroisio (1995) が利用されるシェームが違うから当然だのようなコメントをしている.そして Simon (1995b) でそれはその通りだのようなコメントを返している.

「シェーム」の語は,このような場合に,人間が用いている知識の側面やその区画化を説明できて確かに便利.しかし,そこで僕が思ったのは,それ以上の説明はできるものではないということだ.シェームを考えれば,Steffe & D'Ambroisio (1995) の言うように,別のシェームが利用されるように既得知識を活性化すればよいということになる.確かにその通りではある.しかし,それぞれはいかに特徴づけられ,いかに区分されるのであろうか.曖昧である.シェームという概念そのものが曖昧なのである.そのため,フランス数学教授学では,Vergnaud (1991) らによって concept, conception などが数学そのものの性質を考慮して導入された.特に重要なのは表現・表記法,特に register だと思う.上の例も register もしくはコンセプションの概念を使えばもっとうまく説明できる.

構成主義的教授
Simon の行った授業はおそらく「構成主義的教授」の一つであるのだと思う.しかし,構成主義の根本原理の一つである,環境 (milieu) からのフィードバックについてはほとんど分析がなかった.なぜだろう?同化や調節については触れられていたが,どれも教師からのフィードバックに関してだったように思える.物足りなく感じた.

教授モデル
Simon は自分の授業から構成主義に基づいた教授モデルを構築している.そこで素朴な疑問は,本当にこのモデルが構成主義に基づいた教授モデルの必要十分条件になっているのだろうか,である.reflection を促すことが構成主義に基づいていることの一つとしてあげられているが,このことはこの教授モデルといかに結びついてるのかあまり明確でない.さらに,環境からのフィードバックも考慮されていない.すると,この教授モデルは,構成主義の根本原理を満たしていない学習を促す教授でも構成主義に基づいていると言い張ることができそうな感じがする.Simon が冒頭で危惧していたこと (構成主義的な教授と言い張っているものが多い) を再現しないか心配である.

Ball (1993)

Ball, D. L. (1993). With an eye on the mathematical horizon: Dilemmas of teaching elementary school mathematics. The Elementary School Journal, 93 (4). pp. 373-397.

Ball (1993) では,教授におけるいくつかのジレンマが示された.いくつか引っかかるところもあったけど,論文自体はなかなか面白かった.

引っかかった点に関して:

数学そのものの性質では,負の数の扱いのところで,演算としてのマイナスと数としてのマイナスを明確に分けていなかった.ビルディングの表現では,数としてのマイナスは,位置としての階の番号と,上への方向を持つ量としての移動分を,マイナスを用いてうまく表現できる.しかし,演算としてのマイナス(つまり引き算)はちょっと難しい.もしかすると,移動分の量のみの演算として演算のマイナスも出現させることはできるかもしれないが(要検討).

もう一点引っかかったのは,ショーンの偶数個のペアのところで,スタンダードな数学では意味をなさないようなことが書かれていたけど,4 の倍数ということを考えれば,数学的にも意味はある.2 (2k) もしくは a = b (mod 4) がどんな数か探究すればそれなりに面白いであろう.もちろんその方向に授業を持って行くかどうかは別で,教師の展望から外れてしまう可能性があるという意味で,ジレンマではあるかもしれない.

Representation (表現)に関して:

表現のジレンマに関しては,Duval (1995, 2006) の register を考えれば,現在からすれば,当然ではある.もちろん米国では今でもあまり知られていないのだろうけど.register の視点からすれば,このジレンマは数学を教えようとするときの用いられる表現に固有なジレンマである.Duval が言うように,ある数学知識を獲得するためには最低2つの register が必要となってくる.しかしそれぞれの register においては,与えることのできる情報や可能な操作が異なり,それぞれは対応する数学概念の側面が異なるのである.

2007年3月7日水曜日

Postulate って?

アメリカの高校数学では,axiom (公理)と言う語は出てきません.その代わり,postulate という語が頻繁に出てきます.postulate は,日本語では「公準」で,公理と同じだろうと思っていたのですが,どうも違う感じです.というのも,教科書にはやたらと沢山の postulate が出てくるのです.さらに,高校の数学の先生は,postulate は「明らかで証明のいらないもの」程度の認識しかないのです.

例えば,ユークリッド幾何学の「平行線の公理(公準)」が postulate と呼ばれるのは普通だと思いますが,三角形の合同条件も三辺相等などそれぞれの条件が postulate と呼ばれています.合同条件は明らかに公理ではありません.「合同」を定義したらそれぞれの条件を導くことができます.言ってしまえば,定理です.しかし,アメリカ(ミシガン)では,それぞれをその学習段階で証明できないからか postulate と呼びます.

もしかしたら,証明できないものでも,ほかの証明の道具として利用するために axiom ではなく,postulate と言う名称を用いているのかもしれません.

この postulate の利用にはもちろん様々な弊害が生じます.例えば,平行線の公理のように,本来本当に公理であるものがなぜ公理として証明なしで利用するのか(例えば,ユークリッド平面を規定するなど),その理由が忘れ去られてしまいます.なぜならば,ほかの postulate の利用の理由が単にその学習段階で証明できないことにあるからです.

アメリカって変なの.

2007年2月9日金曜日

height と altitude

今日,数学における英語の height と altitude の違いを学んだ.
これまで同じものかと思っていた.

Height: 日本語で「高さ」に相当.つまり一つの測度 (measure) .
Altitude: 日本語では,ある幾何図形(特に三角形や四角形,角錐等)において一つの頂点を通って辺,面に対して垂直な直線.簡単に言えば,一つの頂点を通る垂線 (perpendicular line).したがって,一つの幾何図形 (geometrical figure) .

まあ英語では,頂点を通る垂線に特別な名前を付けているってことですね.でも,なんか altitude が直線なのか,線分なのかは曖昧みたい.厳密には直線だと思うけど,実際には線分として捉えられていることが多い感じがする.まああんまりたいしたことではないけど.