2007年4月10日火曜日

Sensevy et al (2005)

Sensevy, G., Mercier, A., Schubauer-Leoni, M-L., Ligozat, F. & Perrot, G (2005). An attempt to model the teacher's action in mathematics, Educational Studies in mathematics, 59(1), 153-181.

この論文はなかなか面白かったです.フランス数学教授学の人たちなので,枠組みがしっかりしているし,数学知識が常に中心にあります.

論文は,数学教師の行為をうまく捉え分析するモデルを示すことを目的としています.そのモデルとは,次の3つのレベルの分析によって教師の行為を記述するものです.ちなみに分析の事例には,ブルソーの有名な "race to 20" を題材にした二人の教師の授業が利用されています.

1: mesogenesis, chronogenesis, topogenesis
2: 契約と milieu の関係
3: 教師の信念と通常の指導法

分析の枠組みがキーポイントかつ面白かったで,これらの段階を簡単に説明します.第一段階は,シュバラールの教授学的置換理論で出てくる chronogenesis と topogenesis,それと Mercier (多分)の mesogenesis を分析の視点として採用し,教師がいかなるテクニックを用いてそれぞれを制御するか示すものです.この mesogenesis は僕は初めて知ったのですが,いかに milieu を作るか,いかに milieu を新しい milieu に置き換えるかという数学教授の非常に中心的なところに視点を当てさせます.「milieu の devolution」というおおざっぱな過程を chronogenesis, topogenesis から切り離して milieu に焦点を当てている感じだと思います.そのため分析のスケールは非常に小さいものになります.

第二段階は,ブルソーの教授学的状況理論でおなじみの教授学的契約と milieu の関係を分析の視点として,第一段階の視点よりも少し大きなスケールで教師の行為を記述します.

第三段階は,授業のビデオを見せながら教師へインタビューすることによって第一段階や第二段階で見られる教師の行為の背景を示すものです.この段階の記述は非常に一般的な教師の考え(信念)が示され,必ずしも数学知識そのものに制約を受けた考えとは限りません.

確かにこれらの三つのレベルで教師の行為を記述すれば,数学知識との繋がりをある程度詳細に示せる感じがします.シュバラールとブルソーをうまく融合した感じでしょうか.でもシュバラールの praxeology や didactic organization などとの関係はどうなるのでしょう?必要ないのか?


論文の趣旨からは逸れますが,二人の教師による授業の違いがなかなか面白かったです.それぞれが生徒に対して与えたゲームの性質が非常に異なることがわかります.一人目の教師は,ゴールが勝つことのゲームとその方法を探すことのゲームを順番にうまく与え,生徒は後者のゲームをうまくプレイできています(つまり situation of action から situation of formulation にうまく移行している).一方,二人目の教師は,最初からゴールがその方法を探すことのゲームを与えてしまったので(situation of action が situation of formulation と合体してしまった),生徒が十分に勝つことを目的としたゲームをプレイできず,なかなか厳しい授業になっています.

ところで,最近米国の研究と比較してもう一つこの論文のような研究が好きな理由がはっきりしてきました.それは,数学教授の現象や教師の考えを,米国の研究が非常に emic に記述しようとするのに対し,数学教授学が常に ethic に記述しようとするところです.数学教授学の目的は教授・学習を説明することが可能な理論を構築することなので,ethic な記述をするのは当然です.いくら emic に現象や考えを記述しても,そのメカニズムや現象を生む理由を記述できる理論はなかなか出てこないと考えます.一方,米国の研究は emic 好きです.grounded theory の利用などもその現れだと思います.