2007年5月26日土曜日

Margolinas C. (1998)

Margolinas C. (1998). Relations between the theoretical field and the practical field in mathematics education. In A. Sierpinska & J. Kilpatrick (Eds.) Mathematics Education as a Research Domain: A Search for Identity (pp. 351-356). Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

この論文の入っている本は,ICMI Study の一環で発行されているものです.それぞれの論文は非常に短いのですが,世界で第一線の研究者が数学教育の研究とはどういうものか議論しており,なかなか面白いです.

Margolinas の論文は,フランスにおける研究と実践との関わりを紹介したものですが,最初に示した研究と実践を捉える枠組みが面白かったのでそれだけ紹介します.それは次の図式で示されます.

Opinion -- Statement -- Fact/Phenomenon -- Theory -- Paradigm

左の方が実践においてよく見られるもので,右の方が研究に見られるものです.ここで Fact (事象)とPhenomenon (現象)は同じ「もの」を指していますが,数学教育学の理論によって説明可能な再生可能な fact を現象と呼んでいます.数学教育を科学として発展させるためには,theory を構築しなければならないわけですが,様々な事象の中に科学としての現象を認めなければならない訳です.

論文で出てくる例で紹介しよう.教師の「生徒が極限の概念に困難性を覚える」という statement があったとする.この statement は統計調査などを行なえば,確かめることはできるであろう.つまりこれは事象である.しかし,理論によってなぜか立証されない限り現象にはなり得ないのである.

追記:2007/08/20 に修正.fact と phonemenon の訳には「事象」と「現象」が適切なのだろうか?おそらくフッサールなどの哲学から来ているからそれをチェックしなければ.

2007年5月22日火曜日

Coordinate plane

米国の教科書で,座標平面における軸や数直線は,しばしば <------> という風に両側に矢印がついています.日本の数学に親しんでいる人には,奇妙に感じると思います.数値がどちらに行けば,大きくなるかこれだけではわからないからです.つまり,数直線が方向を持った直線であることが少し曖昧になります.

なんでこんなのを使うのかと思っていたのですが,おそらく幾何においては,直線を <------> と描き,半直線を ------>,線分を ------ と描くからだと思います.つまり数直線は直線だと主張しているのでしょう.数直線が直線であることが方向を持った直線であることより重要であるとは,あまり思えませんけど,そういった方針なのだと思います.

半直線は,ベクトルとも混乱しそうです.これは実際,図形表記だけでなく,文字表記でもベクトルとまったく同じように表記します(AB の上に矢印;直線の場合は両矢印).アメリカの高校でベクトルはやらないので,問題ないのかもしれませんが,奇妙な習慣に見えます.

2007年5月21日月曜日

Barbe, J., et al. (2005)

Barbe, J., Bosch, M., Espinoza, L., & Gascon, J. (2005). Didactic Restrictions on the Teacher's Practice: The Case of Limits of Functions in Spanish High Schools. Educational Studies in Mathematics, Vol.59 No.1-3, 235-268.

シュバラールの「教授学の人類学的理論」を用いて教師の実践における制約を分析したものです.ここで制約とは,数学知識を教えようとする際の,知識そのものによる制約です.事例としては,関数の極限を扱っています.論文は,具体例も多く非常に読み易いです.思うに,このスペインの研究グループは,いつも非常にわかりやすく説明してくれます.Bosch の講義を何度か聴いたことがありますが,そのときもそう思いました.この論文で,シュバラールの最近の理論をより深く理解できるかと思います.

論文の内容は,これまでの研究結果をまとめたものという感じで,盛りだくさんです.Praxeology を使って,関数の極限の学習に関わる基本となる数学的な枠組み (reference mathematical organisation) をうまく記述しています.教師の実践を単に実践そのものから分析しているのではなく,数学知識の視点から分析しているのです.この数学知識を特徴付ける,理解することをしっかりおさえているところが,アメリカの研究にはほとんどなく,フランス数学教授学の特徴であり,非常に重要なところです.このような枠組みなしに実践を分析すれば,経験主義的な描写しかできず,教師の行動や選択などに知識の側面から十分な意味を与えることができません.たとえ何かしらの意味を与えられたとしても,数学知識に関係ないものであったり,主観的なイデオロギーによって教育実践やさらには教師個人の良し悪しなどの議論程度になりかねません.

関数の極限に関しては,スペインの高校数学のカリキュラムでは,知識部分が空な「極限の代数」の praxeology と実践部分が空の「極限のトポロジー」の praxeology が分離して扱われており,いくら教師が努力しても,極限計算の手続き的なもの(実践部分)に十分な意味を与えることができないことを示しています.また最終章では, "hierarchy of levels of co-determination" の視点から,テーマ的な制限 (thematic confinement) が実践への制約を生んでいることも示しています.そう言えば,個人的なことですが,"hierarchy of levels of co-determination" は,2001年のサマースクールでシュバラールによる講義を聞きましたが,そのときはあまりよく理解できませんでした.この論文で大分理解できました.感謝.

2007年5月15日火曜日

Laborde, C. (2007)

Laborde, C. (2007). Towards theoretical foundations of mathematics education. ZDM, 39 (1-2), 137-144.

前回の記事の追記に少し書いたように,ZDM で "Didactics of mathematics as a scientific discipline - in memoriam Hans-Georg Steiner" という特集を組んでいました.その中の論文で,フランスの Laborde のものがなかなか面白かったので簡単に紹介します.

この論文では,フランス数学教授学のこれまでの変遷を理論に焦点を当てて紹介しています.極力,ドイツの数学教授学と関連づけているところがなかなか面白いです.フランスとドイツの両数学教授学は,たま~に共同の会議を開いて交流を図っていたようです.今回の特集には,フランス数学教授学の研究者は,Laborde しかいませんが,Straesser の論文を見るとフランスに影響を受けているのがよくわかります.

論文自体の内容は,コアとなる数学知識の研究が不変(普遍?)のものとして常に中心にある一方で,研究の焦点が少し変わってきたことを紹介しています.それは,ミクロレベルの研究とマクロレベルの研究の関係がだいぶ確立されてきたという点と,授業設計よりも通常の授業が分析対象になってきたという点が上げられています.前者は,教授学的状況理論と教授学的置換理論がだいぶ補完しながら分析ができるようになったことにあります.後者は,私の知っている2000年頃からそうでしたし,フランス数学教授学の理論は授業を理解するための道具なので,その利用方法は当然かもしれません.でも,さらに根本的な,数学教育の現象のメカニズムに研究の対象がいっているのかもしれません.

その他,数学教育の ICT 利用にも触れています.もちろん研究レベルの話しですが,近年よく用いられる分析枠組みで artefact, instrument などにも触れています.ヴィゴツキーを発展させた Rabardel の枠組みは,tool の利用には非常に便利なものですが,日本ではまだ知られていないようです.多くが英語で書かれているので日本人でも読めないことはありません.

2007年5月11日金曜日

Strasser, R. (1994)

Strasser, R. (1994). Introduction to chapter 3: Interaction in the classroom. In R. Biehler, R. W. Scholz, R. Strasser, B. Winkelmann (Eds.) Didactics of Mathematics as a Scientific Discipline (pp.117-120). Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

これは論文ではなく,編集者による一つの章「教室における相互作用」のインントロダクションです.そのため特別の内容があるわけでもなく,その章の論文の解説・紹介をしているだけです.しかし,個人的に,このイントロとそのあとのいくつかの論文に興味深いところがありました.いくつかの論文というのは,フランス数学教授学のことを扱っているフランス人の Laborde とイタリア人の Bartolini Bussi それぞれの二本の論文です.興味深かった点は二点あります.

一つ目は,両者の論文において,フランス数学教授学が参照される際に,わざわざ didactique des mathematiques の語を用いているところです.この書籍は,Didactics of Mathematics as a Scientific Discipline というタイトルだし,英語の書籍なので英語を使えばいいのですが,フランス人もイタリア人も仏語を用いています.ドイツ人の言う数学教授学とフランスの数学教授学が異なるものだと二人の筆者が認識していることが見て取れます.

二つ目は,Strasser がイントロで使っている言葉です.フランス数学教授学のアプローチを "knowledge-oriented approach" (p.119) など "knowledge-oriented" の語を使っています.これは言い得て妙だと思いました.確かにその点が他国のアプローチと非常に異なる点の一つです.Strasser 自身,フランス数学教授学のことを非常に良く知っている人です.日本語だと「知識指向型アプローチ」と言えるかと思います.今度使わせてもらいます(謝).


追記 (2007/5/11):この著者の名前ですが,英語表記すると本当は Straesser のようです.a にウムラートがつくと ae に相当するみたいです.ドイツ雑誌の ZDM ではそうなっていました.たまたま今日見つけたのですが,ZDM の 2007 年の 39 号にこの本とほぼ同じテーマでかつ執筆者も似た面々で特集が出ています.あと,いつの間にか ZDM もSpringer の website から発行されるようになったのですね.

2007年5月9日水曜日

Rav, Y. (1999)

Rav, Y. (1999). Why Do We Prove Theorems? Philosophia Mathematica, (3) Vol. 7, 5-41.

この論文は,数学哲学のものですが,なかなか面白かったです.数学における証明が,コンピュータのプログラムのような無味乾燥なものでなく,非常に人間的なものであることを示しています.定理を証明する過程においていかに数学知識が発展するかいくつかの例で示しているところなども,ラカトシュの『証明と論駁』みたいでなかなか面白かったです.

この論文の中で特にポイントになるのは(私にとって),形式的な証明である Derivations と一般に数学者などが与える Conceptual proofs の区分だと思います.それぞれに対応するように,数学基礎論のような演繹的に「整合性 (consistency)」のあるフォーマルな理論と,数学基礎論以外の多くの分野のような意味などにおいて「一貫性 (coherence)」のあるインフォーマルな理論に区分できるというのは,確かにと思いました.摩天楼の基盤と宇宙船の作成のメタファーもわかりやすかったです.

このことを数学教育の研究に照らして考えてみると,フランス語では,prove と demonstration という二つの語があり (e.g., Balacheff, 1987),上の区分に一応対応する感じがします.それぞれの違いは, Duval (1991) などによりまたちょっと違った視点から示されています.そこでちょっとした疑問は,これらは本当に対応するものなのだろうか?ということです.実際,対応するのであれば,なぜ Rav はフランスの人なのに demonstration の語を用いなかったのだろう?学校教育における demonstration の利用が数学者社会の proof と同じように思えたからだろうか?それとももっと機械的に導かれているニュアンスを出したかったのだろうか?

2007年5月5日土曜日

Chevallard, Y. (198?)

Chevallard, Y. (198?). The Didactics of Mathematics : Its Problematic and Related Research. Recherches en didactique des mathematiques, 2(1), 146-158.

1980 年に開催された ICME 4 (Berkeley) で発表した論文だそうですが,RDM に掲載されているとのことです.しかし,ネットで調べたところ本当に英語で出ているのかちょっとわかりませんでした.そういえば,シュバラールの論文の多くは, http://yves.chevallard.free.fr/ にアップされているので簡単に入手できます.最近は雑誌の多くが電子化されていて,かつ大学がその会員になっているので,ほとんどネットでこと足ります.

この論文は非常に古いものですが,非常にわかりやすくフランス数学教授学がどのような学問なのか説明しています.短いので簡単に読めます.フランス数学教授学が70年代に形作られてきたとき,それがこれまでの教育学 (pedagogy) と何が違い,なぜそれが必要か,その説明が必要だったために書かれたものだと思います.

具体的な内容は,昔の教育学と比較し,かつ他の学問分野の発展の歴史を参考にしてフランス数学教授学の問題意識を説明しています.例えば,昔の教育学では,デュルケムやピアジェ,ブルーナーらに見られるように教育の理論や研究と言っても規範的 (prescriptive and normative) なもの,つまりデュルケムの言葉を使えば "practical theory" が主に扱われてきました.一方,兵器などの発展の歴史を参照すれば,ダビンチのような技術だけでは明らかに不十分で,即効性はなく遠回りになるかもしれないがガリレオのようなより科学的なもの(物理学)が必要になります.それを教育で考えると,"practical theory" ではなく教授学が必要になるということです.後半には,教授学的置換や教授学的契約の例も簡単に出てきます.

2007年5月4日金曜日

Chevallard, Y. (1999).

Chevallard, Y. (1999). Didactique? Is it a plaisanterie? You must be joking! A critical comment on terminology. Instructional Science, 27(1/2), 5-7.

数ヶ月前に一度読んでいたのに,また発見しました(忘れていた).これは論文というよりも3ページのちょっとしたコメントです.でも意外と面白い,かつ重要な裏話的なものです.

専門用語についてですが,それも「フランス数学教授学」そのものの英語表記についてです.この頃 (1999年頃) まで英語で表記する際に didactique の語を英語の didactics に訳さずそのまま使っていることがよくありました.例えば,Brousseau (1997) の『教授学的状況理論』の英語版では didactique を使っています.これは,フランス数学教授学が,通常の訳の「教授」やドイツの「教授学」のような意味で取られると嫌だからということに起因します.確かにフランスのものは,その問題意識や手法からして通常の mathematics education 研究とは異なるのでその気持ちはわからないでもありません.

この論文でシュバラールが言っている論拠もまあその通りかなって感じがします.つまり,他の言語との兼ね合いもあるし,そもそも他の分野(economy や geography など)でも科学的な学問分野と実際的な側面と両方を意味することを考えれば didactics の英訳でよいとするものです.

ちなみに,ブルソーも最近は didactics を使っています.確か PME30 のプレナリー論文だったと思いますが,言語学等の他の分野を見習って didactics を使うと言っていました.

シュバラールのこの論文では,もうひとつ専門用語の訳に触れています.そう彼の理論である「教授学的置換」の英訳です.こっちは,意味が変わってしまうといけないから,transfer (移動や変換など)ではなく transposition (置換)なんだとさ.

追記(2007/06/23):上のブルソーのことに関してですが,プレナリーの論文ではなく,発表の資料でした.Warfield のサイトから入手できます. http://www.math.washington.edu/~warfield/Didactique.html