2008年12月6日土曜日

Heffernan, N. T. et al. (2008)

Heffernan, N. T., Koedinger, K. R., & Razzaq, L. (2008). Expanding the Model-Tracing Architecture: A 3rd Generation Intelligent Tutor for Algebra Symbolization. International Journal of Artificial Intelligence in Education, 18 (2), 153-178.

参考:www.AlgebraTutor.org

Ms Lindquist という intelligent tutor の設計に関する論文です.このAIは代数の文章問題において,子どもの回答に応じて様々なフィードバックを与えることができます.この論文を読んで思ったことは,指導部分の貧弱さです.一般にこういった AI において,二つの大きな課題があります.一つは診断部分で,子どもの知識状態をいかにモデル化するかが課題になります.もう一つは指導部分で,子どもの知識状態に応じていかなるフィードバックをいかに与えるかです.このAIでは,実際の個人教師をモデル化して,後者の指導部分を設計したそうですが,フィードバックの質があまりよくありませんでした.論文で与えられた指導事例のほとんどにトパーズ効果が見られました(Ms Lindquist よりも Mr Topaze の命名のほうがいいかも/笑).

しかしこの論文を批判するためにここに書き込んだわけではありません(しかも最近ずっと更新がなかったのに).それなりに考えさせてくれ,面白いと思ったからです.考えさせてくれたことは,フィードバックの質と数学教育学の研究の必要性についてです.このAIのフィードバックを見て,トパーズ効果などを知っているひと(あまりいないでしょうけど)や数学教育学の研究者はすぐに問題がわかるでしょう.しかしそうでなければ,子どもに応じたフィードバックであってもあまり適切でないことに気づくのは容易ではないのだなぁと再認識しました.すると,数学教育学側としては,フィードバックの質についてまとめた論文や著書を書く必要があるのかもしれません.

2008年9月3日水曜日

Straesser (2008)

Straesser R. (2008). Review of the proceedings of the 2001, 2003 and 2005 French summer schools in Didactics of Mathematics. Educational Studies in Mathematics. (printing).

この論文は,数日前に online first になったもので,まだ印刷中です.内容は,研究結果ではなく,フランスのサマースクールの概要を簡単に述べ,その研究の質を簡単に論じたものです.この中で,まさにそうだ,と同意できる言明が英語で(これが重要,仏語では色々あるため)あったので,備忘録として記しておくことにしました.二点あります.

一つ目は,「TIMSS や PISA のような大規模な国際比較研究は,数学教授学のフランスコミュニティーでは中心的な役割を果たさない」ということです.その理由は,フランスの数学教授学が理論枠組み,概念枠組み (conceptual, theoretical framework) を作ることを第一に考えているからです.換言すれば,数学教育に関する現象を説明するための言葉を作ることを第一にしているからです.フランス数学教授学をよく知っているひとには当然のことでしょう.

二つ目は,英語圏でしばしば用いられる 「“grounded theory” のアプローチは,フランス数学教授学コミュニティーには容易に受け入れられないであろう」ということです.これも一つ目と同じ理由からです.いくらある事象を詳細に描写したとしても,それはあくまで感覚にもとづいたものであり,新たな概念枠組みを作れば,その描写はまったく別物となってきます.すると,感覚にもとづいた詳細な描写はあまり価値を持ちません.さらに,その描写だけにもとづいて概念枠組みを作るというのも,フランスでは受け入れられないでしょう.なぜならその描写が頼りないものだからです.

以上,簡単ですが.

2008年5月13日火曜日

Margolinas & Wozniak (2008)

Margolinas, C. & Wozniak, F. (2008). Places des documents dans l'élaboration d'un enseignement de mathématiques à l'école primaire. Actes de la XIVème école d'été de didactique des mathématiques. Grenoble: La Pensée Sauvage (in press).

この論文は大変面白かったのですが,今回は論文の内容についての書き込みではありません.論文の脚注に書かれていることを忘れないようにと,まさに備忘録として書かせてもらいます.内容については今度余裕があれば書きます.

私の注目した脚注は,フランスの以前の師範学校 (école normale) についてです.現在ではすべて IUFM という名称の小学校教員,中等学校教員の両方を養成する大学院大学(大学3年時を修了してから入る)のようなものに変わりましたが,それまでは,小学校教員を養成する師範学校というものがありました.そこで知らなかったのですが,この師範学校には附属小学校 (écoles d'application もしくはécole annexe) というものがあり,わが国の教育学部の附属学校とほぼ同じ役割を果たしていたそうです.そこでの教師の性格は若干わが国と異なりますが(教師になるための試験があったりする),maitres formateurs と呼ばれる教師は実習生を指導したりする点はほぼ同じです.

これを見て思ったのは,わが国の教育制度が欧州の制度を参考にしたのだから,よく考えればまあ当然か,ということです,わが国の附属だって昔の師範学校時代からあったでしょうからね.するとおそらく他のヨーロッパ諸国も同じでしょう.まあたわいもないことなのですが,私には重要だったりします.実は少し前に日本のことを紹介する仏語論文を投稿したのですが,内容が...,少し書き換えた方がいいかもというわけです.

2008年5月9日金曜日

linear function

最近,アメリカの高校で扱われる一次関数について調べることがありました.色々な意味で面白かったので,今回はその一つを紹介します.

英語の Linear function という言葉ですが,よく聞く言葉だと思います.日本の学校数学では,「一次関数」に相当するのだと思います.しかし,今日思ったのですが,この linear function という言葉あまりよくないです.

アメリカの高校の教科書などをみると,linear function は, f(x) = ax + b と表現できる関数を指しているようです.ここで私が注目したのは linear という語です.一般に,linear という語は,わが国では,高校で勉強する一次変換や大学初年度の線形写像,線形変換などの「一次」や「線形」に相当すると思います.この「線形」という言葉ですが,線形代数では,写像に対して,f(x + y) = f(x) + f(y) と f(ax) = a f(x) が成り立つ場合を指します.この定義に倣うと,f(x) = ax なら線形写像になりますが,上の米国の linear function (f(x) = ax + b) は線形写像ではありません.つまり,米国の学校数学では,線形写像にならないものを「線形関数 (linear function)」と呼んでいるのです.これにはちょっと驚きました.

もちろん,米国の教科書は関数の input と output の組を座標上で直線として表現できるので,linear と呼んでいるのだと思います.でもこの場合は,関数(もしくは写像)が線形ではなくて,組が座標上で線形に表現できているだけです.すると,もし米国の大学で普通に線形写像や線形変換を習うなら(実際そうですが),高校までに習う linear という言葉と,大学で用いられる linear の言葉の意味が異なってしまいます.もちろん,それで OK というのであれば,それまでのお話ですが.

そこで素朴な疑問は,他国ではどのようにしているのか,です.二つ紹介しましょう.まずわが国です.日本では,この辺を上手くやっている感じがします.中学校では f(x) = ax + b を「一次関数」と呼び,この「一次」は変数の指数を指しています.つまり,関数が線形であるかどうかには触れていません.英語であれば,function of first degree とでも訳せるのでしょうか.一方,「一次変換」は「一次」を使っていますが,変換自体は線形です.つまり,この「一次」の語は,linear とも解釈できるし(普通はこの意味だと思います),f(X) = AX で X の指数が一次だからとも解釈できます.そして,大学では主に「線形」の言葉が用いられると思います.したがって,線形 (linear) の言葉は,本来の意味でしか用いられないと言えます.

次に,数学の国フランス.フランスの学校数学では,fonction lineaire (線形関数)というと f(x) = ax のことを指します.一方,f(x) = ax + b は,fonction affine (アフィン関数)と呼ばれます.前者は写像として線形であり,lineaire (英語で linear) の意味が中等教育の数学と大学の数学と一貫しています.この国も,数学において矛盾が生じないようになっていることがわかります.

このように二つの国だけを見ると,アメリカの場合が特殊なように見えます(実際はどうなのでしょう?).たいした問題ではないのかもしれませんが,少し混乱を招きそうな気もします.また,今回取り上げた点を除いても,アメリカの教科書の「線形関数 (linear function)」に関する章は,直線の方程式とごっちゃ混ぜになっていたりして,生徒が関数を理解するのは難しそうに感じました.

2008年4月22日火曜日

Mesquita (1998)

Mesquita, A. L. (1998). On conceptual obstacles linked with external representation. in geometry. Journal of Mathematical Behavior, 17 (2), 183-195.

短く,読みやすい非常に良い論文でした.著者は,フランス・ストラスブールの Duval らの研究グループの一員です.幾何,特に図形についての研究を主に進めてきた方です.研究の内容は大まかに知っていましたが,論文をあまり深く読んだことはありませんでした(おそらく一本ぐらいはあるけど,忘れてしまった).今回はひょんなことから読むことになりました.

論文では,図形・図の機能と役割について非常にうまくまとめられています.新しいものはあまりなく,レビュー的要素が強いですが,図形について日頃思っていることを,いい言葉を導入し,うまく説明しています.表現 (representation) に関する研究では,Duval の register の概念を用いるといろいろなことを非常にうまく説明できます.しかし,この論文では,それとはまた少し異なった視点,心理的・文化的な視点にも焦点を当てています.以下,簡単に,特に用いられている用語に注目して,内容を紹介します.

1. 「幾何学的空間 (geometrical space)」と「表象的空間 (representative space)」
前者は,幾何的な,抽象的な,幾何対象が存在する空間.後者は,われわれの表現(表象)や感覚の枠組みとなる空間(紙上や現実の空間など)である.この区分は,今日的には,数学教育関係者はみな知っていることと思いますが,これらはポアンカレの『科学と仮説』で論じられているそうです.つまり,私はこの本をちゃんと読んでいなかったということです.

2. 表現の典型性
認知心理学の研究を援用し,図的表現には典型性があることを示しています.つまり,数学的にはほぼ同値であっても,典型的な (typical) 図や原型的な (prototypical) 図が存在し,人間がそれ以外の図を認識しづらいことがあるということです.これもよく知られたことだと思いますが,そのベースを教えてくれます.

3. 表現の役割
描写的 (descriptive) 役割と発見的 (heuristical) 役割が紹介されています.まあよく知られたことです.

4. 表現の本性
表現の扱いの点からすると,表現は「対象 (object)」と「イラスト (illustration)」に分けられるとします.前者は,その表現自体を幾何的な推論に利用できたり,新たな関係・性質を得たりすることができる表現です.後者は,それらができないものです.例えば,ある幾何学的な対象をある程度の形は示しているが,角度や長さなどがいい加減に示されている図(正方形が台形のように描かれている図など)が,イラストにあたります.
この区分については,これまであまり考えたことがなかったですが,非常に面白いです.前者と後者は,両方とも図的表現ですが,register (Duval の意味で)として異なります.実際,使える操作が違います.さらに,register では,図的 register の要素の議論がありますが,この場合は,長さと角が異なる程度で非常に似た要素を持ちますが,register としては大きく異なるのです.
なお,学校現場でもこの性質を利用する場面がたまにみられます.図に頼らせないために,生徒に上の意味での「イラスト」を与えることがあります.これは,問題を解くために図的な register を使わせないようにしていると説明できます.

以上です.

この論文は本当に読みやすく,かつ図的表現に関する基礎的なものが沢山出てきますので,修士課程の院生などが勉強するのに良いのではないでしょうか.

追記:私は,representation の訳として「表現」という言葉をよく使いますが,「表象」などとも訳されたりすることもあるようです.私は,「表象」というとなんとなく難しそうなので基本的に使いません,私にとっての,representation とは,何か抽象的なものを示すために,人間の感覚(視覚や聴覚など)によって認識できるように利用された「もの」です.記号や図をはじめ,ジェスチャー,絵画などなど,すべて「表現」になります.

2008年4月20日日曜日

Artigue & Houdement (2007)

Artigue, M. & Houdement, C. (2007). Problem solving in France: didactic and curricular perspectives. ZDM, 39, 365-382.

ZDM の 2007 年 39 巻は問題解決 (Problem solving) の特集でした.世界各国の問題解決の研究と実践に関する現状が報告されています.この論文はフランスの場合を紹介したものです.日本の場合は,日野先生により報告されています.

まずこの論文に関心を持った理由は,フランス関係の論文ということもありますが,それよりも「フランスにおける問題解決」というタイトルでした.そもそもフランスには「問題解決」という語はありません.resolution de probleme という表現はありますが,「問題を解くこと」しか意味しません.さらに,フランスでは日本のいわゆる「問題解決」と似た問題意識はありますが,数学教授学の研究の枠組みでは,それに特別な名称がついて扱われることはありません.では,いわゆる「問題解決」は,数学教授学もしくはフランスの数学教育の視座からすれば,どのように捉えられるのでしょうか?この問いは,実は私が非常に関心を持って取り組んでいる問いなのです(仕事の合間に).この論文には,この問いへの示唆が大変多くみられます.

では,論文の内容を簡単に紹介しましょう.論文では,いわゆる「問題解決」がフランスでいかに扱われてきたのか,数学教授学の研究とフランスのカリキュラム等の実践のそれぞれの視点から,述べられています.前者に関しては,教授学的状況理論 (TDS),人間学理論 (ATD),そして Vergnaud の概念フィールドにおける,問題 (problem) の位置付けなどを示しています.これらの理論では,問題が常に理論の中心に位置付けられることが述べられています.このことは,Vergnaud の「問題は知識の源である (the problem is a source of knowledge)」という言葉にもよくあらわれていると思います.

一方,後者の視点である実践やフランスの学習指導要領においては,「問題解決」という言葉は用いられませんが,70年代後半あたりからわが国と非常に似た活動がなされてきました.例えば,1978 年の学習指導要領では,situation-probleme (問題状況もしくは問題場面)という語が用いられています.これは,複数の解答が可能なオープンな問題や現実の問題を利用するものです.そして,それ以降も,situation-probleme やわが国で言われるいわゆる数学的活動,数学的思考を重視した数学教育が進められてきたことが,この論文からわかります.

この論文で特に面白かった点が2点あります.一点目は,フランスにおける数学教授学の研究と数学教育の実践もしくは実践研究 (action-research) の連携がいかになされてきたか示されているところです.これまで,フランスの実践研究の報告をあまり読んだことがなかったからというのもありますが,思っていた以上に連携が図られていることがわかります.

二点目は,オープンな問題と situation-probleme の違いです.これは,実は最近これだけをテーマに論文を書こうと思っていたものでした.論文で示されている違いは,オープンな問題に対する捉え方が若干異なりますが,私の考えとほぼ同じで嬉しくなりました.この点がまとめられている部分を引用しましょう.

「このように,オープンな問題と problem-situations は,同じ教育的な目的を持つわけではなく,同じように扱われるわけではない.problem-situations においては,目標とされることは,生徒による新たな数学知識の構築であり,TDS とTool-object 相互作用 の影響は明らかである.オープンな問題においては,重要なのは過程である.つまり試行と探究から証明までの数学的活動の様々な側面を含む研究経験である」(p. 373)

この他にも特筆すべきことは,色々あるのですが,長くなるのでここまでにします.

今回の論文は厳密な意味での研究論文ではないので,わかりやすいということもありましたが,アルティーグ先生の論文はいつも非常に明快で大変読みやすい.もう一本最近読んだ論文があるのですが,そちらも大変読みやすく,かつ大変面白かったです.近いうちに,そちらの感想も書き込まねばと思っています.

2008年3月20日木曜日

博士の学位審査

これまでのブログは,論文に対するコメントが主でしたが,今回はちょっと別のことについて私見を述べたいと思います.それは,博士の学位審査についてです.まあ備忘録の一環だと思って適当に読んでいただければ幸いです.

そもそも,このことを書こうと思った原因は,最近の医学博士を取得のために謝礼を払っていたという記事です.
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080319-OYT1T00870.htm

文部科学省は「透明性を」なぞと偉そうなことを言っていますが,これは明らかに制度の問題だと思います.医学の博士号を取るのは,医者になれば非常に簡単だとよく聞きますが,医学部に限らず博士の学位審査を内部のもののみで進める制度が問題でしょう.しかも,多くの場合に担当教官である主査が,学位の合否に非常に強い権限をもっている.このような制度では,学位を出してくれた先生に金を包むのも当然かと思います.まあ謝礼を払わなくとも,学位を取った者は担当教官に非常に感謝するでしょう,人間なら.

そこで,他の国ではどうやっているのか簡単に紹介しましょう.アメリカ系の国では,日本と同じような制度のところが多いかと思います.そのため,ディプロマミルが生じたり,大学によって博士の水準が異なったりしています.現在,私が勤務している米国の大学は,研究大学としてある程度有名なので,博士の水準は低くないですが,審査は学内者のみで行なわれます.

一方,ヨーロッパの多くの国は,学外者を審査員に入れることが義務付けられています.私の聞いた限りの国を言えば,フランス,スペイン,イタリア,オランダ,スウェーデンで,このような制度を採用しているそうです.おそらく,それ以外のヨーロッパの国も制度としてはあまり変わらないでしょう.では,具体的にフランスの場合を紹介しましょう.

フランスの学位審査は一般に 5 人から 7 人の審査員によって行なわれます.この中に,担当教官も含まれますが,特別の権限をもつ審査員が三人います.審査会を仕切り審査報告書を書く座長 (president) が一人と,レフリー (rapporteur) と呼ばれる二人が,その三人です.特にこのレフリーが合否の権限をほぼ握っていると言ってよいと思います.この二人は,提出された論文を査読し,報告書を書き,審査会を開いてよいかどうか判断します.一人でも,駄目だと判断すれば,次の段階には進めません.一方,ここで両者から OK が出れば,後は2時間程度の公開審査(発表約1時間,質疑約1時間)と審査員のみの密室会談を経て,無事学位の授与となります.

ここで重要なのは,学外からの審査員です(海外から呼ぶことも多い).審査員の内訳は,3分の1以上がまず学外者でなければなりません.さらに,レフリーは両者とも学外者でなければなりません(私のときは,フランスの別の大学から一人とイタリアから一人).レフリーの二人が合否の権限をほぼ握っているのですから,日本やアメリカのように学内だけでことを終わらせることができないのです.しかも,担当教官は,審査員の一人ではありますが,ほとんど権限を持っていません.もちろん,息のかかった外部者を審査員に入れ,学位を出すことも可能でしょう.しかし,公開審査が義務付けられていれば,あまりあからさまにはできません.大抵は,博士を取る者の将来を考え,同じ領域の研究者,しかもできるだけ有名な研究者を審査員に呼びます.つまり,博士論文の内容を知ってもらう,そしてコメントをもらうことが,学位審査の目的にもなっているのです.

ヨーロッパの他の国も制度の細かなところは少し違うかもしれませんが,根本はフランスと同じだと思います.そう言えば,ボスニアの知り合いは,修士の審査に他国から人を呼んだと言っていました.ちなみに,フランスでは,主な審査を学外者が行なうため,大学によって博士のレベルが異なるということは少ないです.日本やアメリカのように大学が乱立していないという理由もありますが.

このように世界情勢を見てみると,日本の学位審査の制度はもう変えないと駄目ですね.ただでさえ,おかしな論文で博士の学位を乱発している,と言われる大学があるのですから.こういうものは各大学の良心にまかせずに,中央から改革するしかないと思います.担当教官の権限を弱めることと,学外者の審査員を義務化し,権限を強めることですね.世界的にみて非常に特殊なアメリカの真似をしているとレベルがどんどん下がってしまいます.アメリカは国の特殊性のためこのような制度しかできない,ということにわれわれは気づかないといけないと思います.中央が存在せず,初等・中等教育の教育内容までが州の中のさらに小さな各地域 (district) によって異なるような国です.学位審査の制度はやはりおのおのの大学レベルでしか決定できないのです.

追記:ちなみに,フランスの博士論文は,現在ウェブ上で無料公開されています.私の大学では,このサイトに博士論文を登録しなければ学位がでませんでした.

2008年2月29日金曜日

Margolinas et al. (2005)

Margolinas, C., Coulange, L., & Bessot, A. (2005). What can the teacher learn in the classroom? Educational Studies in Mathematics, 59, 205-234.

一般に,わが国の教師は,他国と比べると教える技術が高いと思います.それは大学などで行なわれる将来の教師を育てる教員養成の賜物というよりも,教師になったあとの教師教育,教員研修の賜物でしょう.わが国の教師教育は,主に,授業研究や校内研修によっています(もちろん大学等での研修もあると思いますが).そして特に授業研究は,近年,教師教育のひとつの方法として米国で注目を浴びており,授業研究を導入する試みまでなされています.しかしながら,世界各国においては教育制度が異なり,教員研修,教師教育の方法も異なります.すると,単に日本の方法を直接輸出することはできません.輸出しても定着は難しいのではないでしょうか.もしかすると,米国のように教員研修の方法があまり確立されていない国ならまだ輸出しやすいのかもしれませんが.

そのような中で,数学教育研究の関心のひとつは,教師教育,教員研修において実際にどこでなにが教師の学習をおこしているのか,を知ることです.授業研究などを実施することにおいて,教師はどこかで教える技術を学習していることは確かでしょう.しかし,具体的に何が,と問われれば明確に答えられません.これに明確に答えることができれば,「授業研究」という名称は使われない,他国の教師教育の方法とどの要素が共通しているのか示すことができます.そして,他国の教師教育の方法をいかに変更すれば,授業研究と同様の効果が得られるか知る手がかりが得られます.実際,「授業研究」は,いまのところ,「機械は動くけど,なぜかはわからない」という域を出ていないからです.

と,前置きが長くなりましたが,この論文は,これに類似した問題意識より,いかに教師が学習をするか,を分析しています.この論文を読んで,同じ枠組みで日本の授業研究による教師の学習を分析してみたいと思いました.どのようなところで学習が生じているか示せると思います.

なお,論文は様々な点で面白かったのですが,ここでは,学習の原理と教師の milieu の水準について書き残しておきます.まず学習の必要十分条件が設定されています.この点をきっちり示しておかないと,何をもって学習が生じたか主張することができません.論文で与えられた事例では,すべての条件を満たしていないため,「一時的な学習」,「局所的な学習」と呼ばれています.以下がその条件です.

1) 反目的 milieu の原理
2) 反省の原理
3) 有用性の原理
4) 無知自覚の原理

これらは,議論の余地もありますが,フランス数学教授学の枠組みにいる研究者にとっては,それほど変なものではないでしょう.思うに,教師に限らず,子どもを含めた学習に関する研究において,学習の根本原理を明確に示していないものが多いと思います.そのため,何をもって学習が生じたか明確に示すことができていません.心理学や認知科学などの研究では,事前と事後のテストで統制群と実験群の結果を比較する古典的な手法がとられることがよくあります.しかし,当然ながら,この方法では,いかに何が学習を生じさせたのか示すことができません.示されることは,用いた教育法がよくわからないけど結果的に通常の方法より多く学習を生じさせることができた,ということのみです.具体的にどこで,そしてなぜという問いには答えてくれません.すると,やはり上のような原理を明確に設定することが肝要になります.

次に教師の活動を水準の異なる milieu で特徴づけているところは,非常に面白かったです.これにより,教師が常にいろいろな milieu の影響を受けながら授業を準備し,授業を進めていることがうまく説明されています.これらは,Margolinas (2004) の記事でも書きましたが,それぞれの水準において異なる知識が必要になり,それぞれの知識を獲得するためには異なった教育が必要になることが示唆されます.

水準についての詳しい説明は,この論文で与えられていませんが.Margolinas (2002) に詳しいです(仏語ですが).ここでは異なる水準のみ,以下に示します.

+3 教授・学習についての価値・考え
+2 大局的教授計画
+1 局所的教授計画
0 教授行為
-1 生徒の活動の観察

(+3) は,わが国で「教育観」と呼ばれるものや,指導要領で示されたものなどに関わる milieu. (+2) は,長いスパンで見た教育計画に関わる milieu です.例えば,学年の教育計画に関わるものです.(+1) は,短いスパンで見た教育計画に関わる milieu です.例えば,単元,もしくは一つの授業の教育計画に関わるものです.(0) は,生徒との相互作用や教授行為における意思決定などに関わる milieu です.つまり,実際に教える行為に関わるものです.(-1) は,生徒の観察に関わる milieu です.つまり,生徒が生徒の milieu と相互作用している状態 (教師の milieu) に関するものです.それぞれは,独立しているわけではありません,授業前中後においてその場その場で異なる水準の活動がなされます.さらにマイナス方向には,生徒の活動をより詳細に捉えることにより,水準を追加することもできます.

ところで,わが国では,これらの水準に類似したものがある気がします.そう,指導案です.多くの指導案がこの4つの水準をカバーしているのではないでしょうか.(0) と (-1) は多くが表で示されています.面白いですね.ますます詳細に分析したくなります.実は,数学の教授と学習に関する理論の構築を目指したフランス数学教授学と実践的な日本の数学教育には,多くの共通点が見られます.これ以外にも色々あります.長くなりましたので,それついてはまた今度書きます(仏語で書いたものがあるのですが).

2008年2月21日木曜日

Margolinas (2004)

Margolinas, C. (2004). Modeling the teacher's situation in the classroom. In H. Fujita, et al. (Eds.) Proceedings of the Ninth International Congress on Mathematics Education (pp. 171-173). Kluwer Academic Publishers.

この論文は, ICME9 の論文集にあるものです.2000年に日本で開催された ICME です.Regular lecture の論文ですが,3ページと非常に短いので,論文というよりは要旨のようなものです.そんな短い文章ですが,いくつか思ったところがありました.それをここに記録しておきましょう.

1. Devolution について
教授学的状況理論で鍵となる概念に devolution というものがあります.教師が生徒に問題に取り組むように責任を移す過程を指します.一般には,この devolution の語は,歴史などにおいて,王様が権力を司法や立法の機関に移すこと(つまり委譲)を指します.教授学的状況理論では,この意味をまねて,devolution の語を使っています.このため,この邦訳にも,「委譲」という語を使ってきました.なお,このお話しはなんとなく知っていたのですが,実際にこのことが書かれたものに出くわしたことがありませんでした.この論文が初めてです.そういう意味で,ここに記録しておこうと思ったわけです.

2. 制約のレベルと教師の知識のレベルについて
この 3 ページの論文では詳細が書けないので,論文が何の話をしているのかわからないと思います.ここでは,milieu の語が使われていませんが,教師の milieu を異なるレベル(局所的なものから大局的なもの)で捉えることが中心に書かれています.教師の実践を異なるレベルで捉えることは,教授学的状況理論だけでなく,人間学理論などでも近年よく見られます.私は,2001 年に初めて異なるレベルに関する講義を聴きました.そのときは,あまりよくわからなかったのですが,最近だいぶその必要性を感じてきました.特に,この論文を読み,再度,やはり教師の実践を分析するなら異なるレベルを考慮する必要がある,と思ったのでした.

2008年1月25日金曜日

Schoenfeld (2006)

Schoenfeld, A.H. (2006). Problem solving from crandle to grave. Annales de Didactique et de Sciences Cognitives, vol. 11, 41-73.

世界的に著名な米国人研究者 Schoenfeld による論文です.この論文は,いろいろな意味で大変勉強になりました.ちなみに,この雑誌はフランスのものなので英語圏では非常にマイナーですが,いい論文がよく出ています.この論文と同じ巻には Sierpinska などフランス以外の研究者の論文が集められており,ちょっとした特集みたいになっていました.

論文の内容は,教師の意思決定,もしくは教授 (teaching) のモデル化についてですが,これまでの研究をまとめたものという感じです.特に Schoenfeld (1998) で導入された theory of teaching-in-context が中心になっています (context の話は少ないですが).簡単に言えば,問題解決における意思決定(教師の意思決定を含む)が「知識」「目標」「信念」「意思決定」の4つの要素でモデル化でき,説明できるとするものです.このことを説得しようとしている論文です.以下,私の考えた点です.

1.メカニズムのモデル化
問題解決における意思決定のメカニズムをモデル化しようとしています.Schoenfeld (1998) で詳しくでていますが,「理論」や「モデル」の言葉の利用は,フランス数学教授学と似たおり,理論やモデルの構築を目指すところにおいて,数学教授学と同じような問題意識にもとづいていると思います.ええこっちゃです.

2.モデル化の対象
この論文を読んで,数学教授学とモデル化の対象,何のメカニズムをモデル化しているのか,が異なることがはっきりしました.米国の数学教育研究は,心理学や認知科学の影響が強いためか,モデル化の対象が個人・主体になっています.この論文でも,意思決定を行なう主体のメカニズムをモデル化しているようです.一方,数学教授学では,心理学とは異なり,主体のメカニズムをモデル化しません.Brousseau による教授学的状況理論であれば,状況をモデル化し,主体はモデルにおける一つの構成要素にすぎません.これは,主体が環境に適応しながら学習すると考えれば,その環境の本性を知らずには何もできないと考えるからです.この点において,それぞれは非常に異なる理論です.個人的には,個人をモデル化しても,あまり教育には役立たないと思います.なぜなら,環境(広い意味で)に個人が知識を構築するためのすべての要素があると考えているからです.

3.理論の役割
この論文では,Schoenfeld の理論が非常に多くのことを説明できると述べています.しかし,理論の役割はなんでしょう?その役割は,説明することと予見することだと思います.物理などの理論を見てもそうであるように,このふたつが理論には不可欠でしょう.説明だけでは,人間がまだそのメカニズムを知らない,もしくは科学によって説明できていない現象を説明する新興宗教の教義と同じです(言い過ぎかもしれませんが).つまり,この論文では,後者の予見について,あまり可能にしてくれそうにない感じがしました.論文では,このことに触れられていません.しかし,構成要素間の関係がまったく明確でないことや,構成要素のどれもなかなか明確に同定できそうにないことから,予見される行動を引き起こす状況を設定することは,難しいのではないかと思いました.もちろん,教育においてこれを可能にする理論構築は非常に難しいですが,教授学的状況理論などはその難しいところをある程度可能にしたと思います.

4.数学知識の位置付け
この論文で示されている理論では,数学知識はかすれて見えません.理論自体には考慮されていません.筆者が言っているように,問題解決一般における意思決定なので,数学知識にこだわらないというわけです.しかしそうであれば,当然ながら,この理論を用いてある現象を説明しても,その現象の数学概念や知識の視点からの意味は何も教えてくれません.この点が,また数学教授学と大きく異なる点です.筆者はもともと数学の研究者です.心理学的な理論ではなく,数学知識に固有な理論を構築して欲しかったです.残念.

5.教師の意思決定研究について
米国において,教師の意思決定の研究は,80年代に沢山やられ,その後下火になっています.その理由はよく知りませんが,扱う内容に特化しなければ,もしくは特定の視点を入れないと難しいと判断されたのかと勝手に推測しています.一方,フランスの数学教授学でも,教師の意思決定や行動の研究は今でもやられています.例えば,Margolinas et al. (2005) は,ブルソーの structuration de milieu を発展させた枠組みを使って分析し,米国とは全く異なる路線を進んでいます.まだちゃんと読んでいませんが,近いうちに読もうと思っています.

と,長くなりましたが,面白かったということです.

2008年1月8日火曜日

Brousseau (2005)

Brousseau, G. (2005). The Study of the Didactical Conditions of School Learning in Mathematics. in M.H.G. Hoffmann, J. Lenhard and F. Seeger (eds.) Activity and Sign - Grounding Mathematics Education (pp. 159-168). Springer.

ブルソーの論文です.まだ斜め読みしかしてないのですが,重要なポイントがいくつかあったので,そのひとつを書きとめておきます.内容自体は,教授学的状況理論の前提となっていることが述べられています.この理論を理解するために,非常によい論文だと思います.

この備忘録に書き留めておこうと思ったのは,仏語の connaissance と savoir の説明が明快に与えられていたからです.それは,次のように与えられています.前者は,「意思決定や親密な関係を持つという意味で理解するための手段としての知識」.後者は,「C-knowledge [前者の知識] を同定し,まとめ,伝達するための文化的・社会的手段としての知識」だそうです (p. 168).目的と手段によって区分するのはうまいと思いました.これまで「私的な知識」と「公的な知識」という訳もありましたが,この方がピンとくると思います.

あと,これらがラテン語を起源としており,この区分は,仏語のみならず,スペイン語,イタリア語にも存在するそうです(英語にはないですが).

この論文は,またちゃんと読んで,ここに追加します.


追加(2008/1/21):数学教授学,特に教授学的状況理論の原理を principles (pp. 164-165) という形で示しています.これらの原理は,理論に整合性を持たせるための原理だそうです.備忘録として,ここに書き留めておきたいと思います.原理自体は直訳ですので,日本語が変でも勘弁してください.またそれぞれの原理は私の解釈が沢山入っています.悪しからず.

原理1:「数学教授学は,目標とされる知識に固有な教授と学習の条件を研究することに焦点をあてる」

これは,まさに数学教授学の定義です.ここで重要なのは「知識に固有な」というところです.世界各国の数学教育研究を見ると,知識に固有でない要素を細かく研究しているものがあるように思えます.この点,日本はだいぶよいのではないでしょうか(理論化には問題ありですが).ちなみに,この定義は,この論文の他の場所でもしばしば言及されています.「教授と学習」の代わりに単に「知識の広がること(diffusion)」と言われることも多いです.

原理2:「ある知識を行動の中に置くことに通用する条件は,お互いに独立して振る舞うことはない」

これは,教授学的状況理論が前提としている原理です.つまり,教師や子ども,知識を個々に分析するのでは,実際の活動の中での教授と学習の条件を研究するためには十分ではないとするものです.それらを総合的に考慮しなければならないということです.この点は,非常に重要です.これまで「子どもの信念」などと人間の内面を分析しようとした数学教育の研究が多かったと思います.教師に関しても同じです.教師の信念や知識などの研究は多くあるでしょう.そしてそのために心理学的なアプローチを用いてきたと思います.実際,内面を分析するのであれば,心理学の領域でしょう.しかし,この原理は,心理学的な発想では,個々の内面の分析では,不十分だと言っているわけです.そのため,数学教授学では,ここの内面は分析せず,子どもや教師は状況のひとつの構成要素になるのです.物理の自由落下運動の研究をする際に,物体の中身を分析しないのと同じです.

原理3:「支持されている一般モデルは,ゲームの経済的理論のモデルである」

これは,状況の構成要素である,特に子どもが,その環境に応じて合理的にベストを尽くして,経済的に行動しているとするものです.つまり,その環境の中では,常に一番よい,経済的だと思う(無意識かもしれないが)選択をしているということです.このことは,たとえ観察者には不合理に見えるかもしれない行動も,その背後では合理的なメカニズムが存在していることを示唆しているとも言えると思います.例えば,ある状況での行動と別の状況での行動が完全に矛盾するものであっても,子どもがそれぞれの行動を実行する合理的な理由がどこかにあるのです.

原理4:「C は状況 S を最適に解決するものである」

ここで C は「概念 (concept)」です.これは,数学の概念自体が,状況に固有であるとするものです.「数学知識=状況」と捉えていると言ってよいかと思います.さらに数学の概念は,ある状況に解決の方法として現れた状態でしか分析できないと言っています(教授学的状況理論では).

原理5:「これらの状況を色々なふうに組み合わされ,そして分解することができる」

これは,状況というものが,理論的構成物として,大雑把にもそして非常に細かくも捉えることができるとするものです.つまり,分析の granularity の問題において.異なったように捉えることができるというわけです.例えば,教授学的状況や亜教授学的状況と言うカテゴリーで非常に大雑把に状況を捉えることもできれば,action, formulation, validation, institutionalisation, devolution などのそれぞれの状況ように小さな状況として捉えることもできます.

原理6a:「どんな数学概念も,それを特徴づける少なくとも一つの状況をもつ」
原理6b:「どんな状況もその解決を生み出すために不可欠な数学知識の集まりを決定する」

これらは,これまで「認識論的前提 (epistemological hypothesis)」と呼ばれてきた研究の前提となる仮説につながるものです.つまり,どんな数学概念も歴史において生じてきたわけなので,その概念が生じるような状況(特に亜教授学的な)が必ず一つは存在するはずだ,とするものです.そのような状況は「基本状況 (fundamental situation)」と呼ばれます.この論文では,いくつかの種類の状況 (action, formulation, validation, etc.) を集めたものが,この基本状況になると述べられています.

2008年1月5日土曜日

Artigue (1998)

Artigue, M. (1998). Research in mathematics education through the eyes of mathematicians. In A. Sierpinska & J. Kilpatrick (Eds.) Mathematics Education as a Research Domain: A Search for Identity (pp. 477-489). Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

この論文は大変面白かった.Artigue の論文はいつも非常に明快で読みやすいです.論文では,主にふたつの主題について述べています.前半では,解析の場合を例にフランスにおける数学教育(研究)の歴史.後半では,数学教授学が数学者コミュニティの中でどのようにその立場を確立してきたか,そして現在数学者とどのような関係になっているか,です.

前半に関しては,1900年頃,1950, 60 年代,そしてその後の3つの時期について述べています.1900 年頃に関しては,数学者コミュニティにおいて数学教育が盛んに議論されてきたこと,L'enseignement mathématique という雑誌が 1899 年から発行されたこと,数学者が主に教育課程の作成に従事していたことが主な内容になっています.1950, 60 年代に関しては,現代化のときですが,数学者や心理学者,教育学者が教育課程の作成に関わり,そして失敗に終わったこと.そして,現代化後に関しては,数学者や心理学者,教育学者のもつ知識体系では教育システムの複雑さを理解するのには不十分だと気づき始めたこと,その反動,結果として IREM が作られたこと,数学教授学が生まれたことなどが紹介されています.

後半では,まず数学教授学が数学の一部として数学者にも認められるようになってきた(大学にポストができてきた)と同時に,数学者が数学教授学を評価することが難しくなってきたことに触れられています.最初の頃は,数学者も数学教授学を理解しようとし,理解していたそうですが,数学教授学自体が発展するにつれ,それが難しくなってきたそうです.特に,現代化以降,そして数学教授学の誕生以降,数学者が数学教育の中心から外れて,数学教育の周辺領域を扱うことが多くなってきたそうです.

結論は,数学教授学万歳というものではなく,今後も数学教授学がひとつの「学」としての数学教育研究のアイデンティティを保つために,周辺領域の研究者や教師と協力していく必要があるとしています.実際,数学教授学の知識体系の有効性を示すためにも,数学教育を改善するためにも,これは必須でしょう.

追記:L'enseignement mathématique の論文は,創刊からすべて次の web page で読むことができます.ポアンカレなど有名な数学者の論文もあり面白いです.仏語ですが・・・.http://retro.seals.ch/digbib/fr/vollist?UID=ensmat-001

2008年1月3日木曜日

Deakin (1990)

Deakin, M. A. B. (1990). From Pappus to today: The history of a proof. The Mathematical Gazette, Vol. 74, No. 467, 6-11.

この論文は,ユークリッド幾何の二等辺三角形の底角の定理の証明について論じたものです.パッポスのことを調べていて見つけました.これをみると昔からいろいろな方法が議論されてきたことがわかります.

この中で「へぇ~」と思ったことは,Legendre (1794) と Lacroix (1799) が同じような時期に Eléments de géométrie という同じ名称の本を出していることです.おそらく幾何学の教科書だと思います.このルジャンドルの本では,底角の定理の証明に三辺相等を用いているそうです.つまり,三辺相等が二辺夾角から底角の定理を使わずに導いているということです.一度読んでみたいものです.