2008年1月25日金曜日

Schoenfeld (2006)

Schoenfeld, A.H. (2006). Problem solving from crandle to grave. Annales de Didactique et de Sciences Cognitives, vol. 11, 41-73.

世界的に著名な米国人研究者 Schoenfeld による論文です.この論文は,いろいろな意味で大変勉強になりました.ちなみに,この雑誌はフランスのものなので英語圏では非常にマイナーですが,いい論文がよく出ています.この論文と同じ巻には Sierpinska などフランス以外の研究者の論文が集められており,ちょっとした特集みたいになっていました.

論文の内容は,教師の意思決定,もしくは教授 (teaching) のモデル化についてですが,これまでの研究をまとめたものという感じです.特に Schoenfeld (1998) で導入された theory of teaching-in-context が中心になっています (context の話は少ないですが).簡単に言えば,問題解決における意思決定(教師の意思決定を含む)が「知識」「目標」「信念」「意思決定」の4つの要素でモデル化でき,説明できるとするものです.このことを説得しようとしている論文です.以下,私の考えた点です.

1.メカニズムのモデル化
問題解決における意思決定のメカニズムをモデル化しようとしています.Schoenfeld (1998) で詳しくでていますが,「理論」や「モデル」の言葉の利用は,フランス数学教授学と似たおり,理論やモデルの構築を目指すところにおいて,数学教授学と同じような問題意識にもとづいていると思います.ええこっちゃです.

2.モデル化の対象
この論文を読んで,数学教授学とモデル化の対象,何のメカニズムをモデル化しているのか,が異なることがはっきりしました.米国の数学教育研究は,心理学や認知科学の影響が強いためか,モデル化の対象が個人・主体になっています.この論文でも,意思決定を行なう主体のメカニズムをモデル化しているようです.一方,数学教授学では,心理学とは異なり,主体のメカニズムをモデル化しません.Brousseau による教授学的状況理論であれば,状況をモデル化し,主体はモデルにおける一つの構成要素にすぎません.これは,主体が環境に適応しながら学習すると考えれば,その環境の本性を知らずには何もできないと考えるからです.この点において,それぞれは非常に異なる理論です.個人的には,個人をモデル化しても,あまり教育には役立たないと思います.なぜなら,環境(広い意味で)に個人が知識を構築するためのすべての要素があると考えているからです.

3.理論の役割
この論文では,Schoenfeld の理論が非常に多くのことを説明できると述べています.しかし,理論の役割はなんでしょう?その役割は,説明することと予見することだと思います.物理などの理論を見てもそうであるように,このふたつが理論には不可欠でしょう.説明だけでは,人間がまだそのメカニズムを知らない,もしくは科学によって説明できていない現象を説明する新興宗教の教義と同じです(言い過ぎかもしれませんが).つまり,この論文では,後者の予見について,あまり可能にしてくれそうにない感じがしました.論文では,このことに触れられていません.しかし,構成要素間の関係がまったく明確でないことや,構成要素のどれもなかなか明確に同定できそうにないことから,予見される行動を引き起こす状況を設定することは,難しいのではないかと思いました.もちろん,教育においてこれを可能にする理論構築は非常に難しいですが,教授学的状況理論などはその難しいところをある程度可能にしたと思います.

4.数学知識の位置付け
この論文で示されている理論では,数学知識はかすれて見えません.理論自体には考慮されていません.筆者が言っているように,問題解決一般における意思決定なので,数学知識にこだわらないというわけです.しかしそうであれば,当然ながら,この理論を用いてある現象を説明しても,その現象の数学概念や知識の視点からの意味は何も教えてくれません.この点が,また数学教授学と大きく異なる点です.筆者はもともと数学の研究者です.心理学的な理論ではなく,数学知識に固有な理論を構築して欲しかったです.残念.

5.教師の意思決定研究について
米国において,教師の意思決定の研究は,80年代に沢山やられ,その後下火になっています.その理由はよく知りませんが,扱う内容に特化しなければ,もしくは特定の視点を入れないと難しいと判断されたのかと勝手に推測しています.一方,フランスの数学教授学でも,教師の意思決定や行動の研究は今でもやられています.例えば,Margolinas et al. (2005) は,ブルソーの structuration de milieu を発展させた枠組みを使って分析し,米国とは全く異なる路線を進んでいます.まだちゃんと読んでいませんが,近いうちに読もうと思っています.

と,長くなりましたが,面白かったということです.

2008年1月8日火曜日

Brousseau (2005)

Brousseau, G. (2005). The Study of the Didactical Conditions of School Learning in Mathematics. in M.H.G. Hoffmann, J. Lenhard and F. Seeger (eds.) Activity and Sign - Grounding Mathematics Education (pp. 159-168). Springer.

ブルソーの論文です.まだ斜め読みしかしてないのですが,重要なポイントがいくつかあったので,そのひとつを書きとめておきます.内容自体は,教授学的状況理論の前提となっていることが述べられています.この理論を理解するために,非常によい論文だと思います.

この備忘録に書き留めておこうと思ったのは,仏語の connaissance と savoir の説明が明快に与えられていたからです.それは,次のように与えられています.前者は,「意思決定や親密な関係を持つという意味で理解するための手段としての知識」.後者は,「C-knowledge [前者の知識] を同定し,まとめ,伝達するための文化的・社会的手段としての知識」だそうです (p. 168).目的と手段によって区分するのはうまいと思いました.これまで「私的な知識」と「公的な知識」という訳もありましたが,この方がピンとくると思います.

あと,これらがラテン語を起源としており,この区分は,仏語のみならず,スペイン語,イタリア語にも存在するそうです(英語にはないですが).

この論文は,またちゃんと読んで,ここに追加します.


追加(2008/1/21):数学教授学,特に教授学的状況理論の原理を principles (pp. 164-165) という形で示しています.これらの原理は,理論に整合性を持たせるための原理だそうです.備忘録として,ここに書き留めておきたいと思います.原理自体は直訳ですので,日本語が変でも勘弁してください.またそれぞれの原理は私の解釈が沢山入っています.悪しからず.

原理1:「数学教授学は,目標とされる知識に固有な教授と学習の条件を研究することに焦点をあてる」

これは,まさに数学教授学の定義です.ここで重要なのは「知識に固有な」というところです.世界各国の数学教育研究を見ると,知識に固有でない要素を細かく研究しているものがあるように思えます.この点,日本はだいぶよいのではないでしょうか(理論化には問題ありですが).ちなみに,この定義は,この論文の他の場所でもしばしば言及されています.「教授と学習」の代わりに単に「知識の広がること(diffusion)」と言われることも多いです.

原理2:「ある知識を行動の中に置くことに通用する条件は,お互いに独立して振る舞うことはない」

これは,教授学的状況理論が前提としている原理です.つまり,教師や子ども,知識を個々に分析するのでは,実際の活動の中での教授と学習の条件を研究するためには十分ではないとするものです.それらを総合的に考慮しなければならないということです.この点は,非常に重要です.これまで「子どもの信念」などと人間の内面を分析しようとした数学教育の研究が多かったと思います.教師に関しても同じです.教師の信念や知識などの研究は多くあるでしょう.そしてそのために心理学的なアプローチを用いてきたと思います.実際,内面を分析するのであれば,心理学の領域でしょう.しかし,この原理は,心理学的な発想では,個々の内面の分析では,不十分だと言っているわけです.そのため,数学教授学では,ここの内面は分析せず,子どもや教師は状況のひとつの構成要素になるのです.物理の自由落下運動の研究をする際に,物体の中身を分析しないのと同じです.

原理3:「支持されている一般モデルは,ゲームの経済的理論のモデルである」

これは,状況の構成要素である,特に子どもが,その環境に応じて合理的にベストを尽くして,経済的に行動しているとするものです.つまり,その環境の中では,常に一番よい,経済的だと思う(無意識かもしれないが)選択をしているということです.このことは,たとえ観察者には不合理に見えるかもしれない行動も,その背後では合理的なメカニズムが存在していることを示唆しているとも言えると思います.例えば,ある状況での行動と別の状況での行動が完全に矛盾するものであっても,子どもがそれぞれの行動を実行する合理的な理由がどこかにあるのです.

原理4:「C は状況 S を最適に解決するものである」

ここで C は「概念 (concept)」です.これは,数学の概念自体が,状況に固有であるとするものです.「数学知識=状況」と捉えていると言ってよいかと思います.さらに数学の概念は,ある状況に解決の方法として現れた状態でしか分析できないと言っています(教授学的状況理論では).

原理5:「これらの状況を色々なふうに組み合わされ,そして分解することができる」

これは,状況というものが,理論的構成物として,大雑把にもそして非常に細かくも捉えることができるとするものです.つまり,分析の granularity の問題において.異なったように捉えることができるというわけです.例えば,教授学的状況や亜教授学的状況と言うカテゴリーで非常に大雑把に状況を捉えることもできれば,action, formulation, validation, institutionalisation, devolution などのそれぞれの状況ように小さな状況として捉えることもできます.

原理6a:「どんな数学概念も,それを特徴づける少なくとも一つの状況をもつ」
原理6b:「どんな状況もその解決を生み出すために不可欠な数学知識の集まりを決定する」

これらは,これまで「認識論的前提 (epistemological hypothesis)」と呼ばれてきた研究の前提となる仮説につながるものです.つまり,どんな数学概念も歴史において生じてきたわけなので,その概念が生じるような状況(特に亜教授学的な)が必ず一つは存在するはずだ,とするものです.そのような状況は「基本状況 (fundamental situation)」と呼ばれます.この論文では,いくつかの種類の状況 (action, formulation, validation, etc.) を集めたものが,この基本状況になると述べられています.

2008年1月5日土曜日

Artigue (1998)

Artigue, M. (1998). Research in mathematics education through the eyes of mathematicians. In A. Sierpinska & J. Kilpatrick (Eds.) Mathematics Education as a Research Domain: A Search for Identity (pp. 477-489). Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

この論文は大変面白かった.Artigue の論文はいつも非常に明快で読みやすいです.論文では,主にふたつの主題について述べています.前半では,解析の場合を例にフランスにおける数学教育(研究)の歴史.後半では,数学教授学が数学者コミュニティの中でどのようにその立場を確立してきたか,そして現在数学者とどのような関係になっているか,です.

前半に関しては,1900年頃,1950, 60 年代,そしてその後の3つの時期について述べています.1900 年頃に関しては,数学者コミュニティにおいて数学教育が盛んに議論されてきたこと,L'enseignement mathématique という雑誌が 1899 年から発行されたこと,数学者が主に教育課程の作成に従事していたことが主な内容になっています.1950, 60 年代に関しては,現代化のときですが,数学者や心理学者,教育学者が教育課程の作成に関わり,そして失敗に終わったこと.そして,現代化後に関しては,数学者や心理学者,教育学者のもつ知識体系では教育システムの複雑さを理解するのには不十分だと気づき始めたこと,その反動,結果として IREM が作られたこと,数学教授学が生まれたことなどが紹介されています.

後半では,まず数学教授学が数学の一部として数学者にも認められるようになってきた(大学にポストができてきた)と同時に,数学者が数学教授学を評価することが難しくなってきたことに触れられています.最初の頃は,数学者も数学教授学を理解しようとし,理解していたそうですが,数学教授学自体が発展するにつれ,それが難しくなってきたそうです.特に,現代化以降,そして数学教授学の誕生以降,数学者が数学教育の中心から外れて,数学教育の周辺領域を扱うことが多くなってきたそうです.

結論は,数学教授学万歳というものではなく,今後も数学教授学がひとつの「学」としての数学教育研究のアイデンティティを保つために,周辺領域の研究者や教師と協力していく必要があるとしています.実際,数学教授学の知識体系の有効性を示すためにも,数学教育を改善するためにも,これは必須でしょう.

追記:L'enseignement mathématique の論文は,創刊からすべて次の web page で読むことができます.ポアンカレなど有名な数学者の論文もあり面白いです.仏語ですが・・・.http://retro.seals.ch/digbib/fr/vollist?UID=ensmat-001

2008年1月3日木曜日

Deakin (1990)

Deakin, M. A. B. (1990). From Pappus to today: The history of a proof. The Mathematical Gazette, Vol. 74, No. 467, 6-11.

この論文は,ユークリッド幾何の二等辺三角形の底角の定理の証明について論じたものです.パッポスのことを調べていて見つけました.これをみると昔からいろいろな方法が議論されてきたことがわかります.

この中で「へぇ~」と思ったことは,Legendre (1794) と Lacroix (1799) が同じような時期に Eléments de géométrie という同じ名称の本を出していることです.おそらく幾何学の教科書だと思います.このルジャンドルの本では,底角の定理の証明に三辺相等を用いているそうです.つまり,三辺相等が二辺夾角から底角の定理を使わずに導いているということです.一度読んでみたいものです.