2007年6月28日木曜日

Cevian

今日習った単語, cevian です.
三角形の頂点を通り対辺と交わる直線らしい.
中線とか,角の二等分線,なども含まれます.
日本語では名前がついているのでしょうか?

2007年6月19日火曜日

Kilpatrick, J. (2003)

Kilpatrick, J. (2003). Twenty years of French didactique viewed from the United States. For the Learning of Mathematics, 23(2), 23-27.

以前に触れた Gascon の論文と同じ号にこんな論文がありました.フランス数学教授学の米国への影響について書いています.これは,フランス数学教授学誕生20周年記念会議で発表された 1994 年の仏語論文の英訳です.少し古い論文ですが,10年たって FLM に載っていました.10年経ってというところが面白いですね.つまり,10年経ってもあまり現状が変わっていないってことではないでしょうか.

この論文では,アメリカ人研究者がフランス数学教授学に触れた際の正直な反応が書かれています.やはり,理論的な面と,数学的なアイデアがたくさんあるところが大変なようです.予想通りです.また,didactics という言葉について英語(米語?)での印象などにも触れている点は,参考になりました.didactics という語が米国であまり用いられない理由がわかります.

特に面白かったのは,引用されているフランスの古い文献です.主に二つ目につきました.一つ目は,フランスの200年前の数学教育に関する文献,二つ目は,200年前くらいにフランス人から見たアメリカの研究(数学教育には限らない)についての文献です.前者では,フランスでの数学教育の歴史が長いことがわかります.一方,後者は,数学教育に限らないことですが,アメリカがプラクティカルな側面に強く,あまり理論的なものを発展させないということに触れています.これは,私も個人的に思っていたことで,200年前から認識されていたことなのだと,びっくりしました.ところで,このプラクティカルな面が強いのは,日本も同じですね.

ちなみに,Kilpatrick は,アメリカの研究者として有名ですが,フランスの数学教授学を非常によく知っている人のようです.フランス関係のものでもいろいろなところで出てきます.もう少し読もうかなって感じです.

2007年6月5日火曜日

Inscribed Angle Theorem

日本語では,「中心角の定理」でしょうか?今日,アメリカの教科書でこの定理を見てびっくりしました.それは次のような定理です.

「円に内接 (inscribed) した角の大きさ (measure) は,切られる弧の大きさ (measure of its intercepted arc) の半分に等しい」

ここでびっくりしたのは,「弧の大きさ」という語です.「弧の長さ」ではありません.そして,「弧の大きさ」とはなんだろうと思って,数ページ前を見てみると,「弧の大きさ」が中心角の大きさで定義されていました.したがって,「弧の大きさ」は 30 度というふうに与えられるのです.

なんか非常に違和感があります,上の定理では,角の大きさと弧の大きさの異種の量を比較していますが,長さと体積を比べているような感じがして非常に気持ち悪いです.弧に長さ以外に別の測度を与える意味はなんなんでしょう?別に必要なら新たな測度を導入するのは構いませんが,どんな必要性から生じたのでしょう?弧度法をうまく導入するための準備でしょうか?

追記(2007/6/6):この定理,台湾人に聞いたら,台湾も弧の大きさ (measure) ってのがあるって言っていました.なんでだろう,もしかしらユークリッド原論では,「弧の大きさ」が定義されているのか?でも,同じ定理を確認してみましたが,「中心角」を使っています(参考:Edited by Todhunter, Introduced by Heath, Book III, Proposition 20).まだ謎です. 

追記(2007/8/21):「弧の大きさ」についてですが,ちょっとわかりました.球面幾何学(特に球面三角法)では,辺の大きさは球の中心角の大きさで表すのです.実際,球面はどれも相似なので,普通の三角法のときの単位円と同様に,単位球のようなもので考えれば十分なのです.すると辺の大きさは角度で与えておいた方が球面で三角法を扱うには便利なようです.とすると,上の米国の円での「弧の大きさ」は単位円に慣れ,球面三角法への布石なのでしょうか?まだちょっとよくわかりません.

Gascon, J. (2003)

Gascon, J. (2003) From the Cognitive Program to the Epistemological Program in didactics of mathematics. Two incommensurable scientific research programs? For the Learning of Mathematics, 23(2), 44–55.

この論文は,昔に見つけて,読もうと思いながらも,簡単に眺めただけで終わっていたものです.内容は,数学教育学研究における近年のアプローチを分析したものです.Gascon は,アプローチというよりもラカトシュの研究プログラムという語を用いています.タイトルにある,「共約不可能」の語もラカトシュから援用したものです.

まず,数学教育学の研究が,大きく分けて二つの研究プログラムによってなされているとします.認知論的プログラムと認識論的プログラムです.前者は,英米をはじめとしてこれまでの多くの数学教育学研究が進められてきた研究プログラムで,後者は70年代以降のフランス数学教授学のアプローチを指しています.そして,それぞれのプログラムの前提条件やプログラムによって導かれる問い・問題などを比較しています.

ここで問い・問題というのは,Balacheff (1990, JRME) で強調している problematique です.つまり,数学教育の実践から感覚的に導かれた問いや問題(「証明をいかにうまく教えるか?」など)ではなく,研究の大前提となる理論や枠組みから導かれる問いや問題のことです.Gascon は,それぞれの研究プログラムから problematique を導き出し,いかに異なるか示しています.これから,研究プログラムが非常に異なることがわかります.最も異なる点は,ハードコアの部分で,私が常に触れている点ですが,数学知識を明らかとしているか,数学知識自体を illusion of transparency として問い直しているか,という点です.

論文では,認知論的プログラムを三つのパースペクティブに分け,それぞれの問い・問題を導いていますが,勉強になります(私にはちょっと難しかったですが).特に,自分の研究のアイデンティティーを知り,説明できるようにするためには,重要だと思います.

追記:「認知論的プログラム」と「認識論的プログラム」という呼び方は,なかなかいいです.以前の「知識志向型研究」と同様に使わせてもらいます.