2007年11月17日土曜日

Sierpinska, A. & Kilpatrick, J. (Eds.) (1998)

Sierpinska, A. & Kilpatrick, J. (Eds.) (1998). Mathematics Education as a Research Domain: A Search for Identity. Dordrecht: Kluwer Academic Publishers.

この本のいくつかの論文には,以前の記事で触れました.まだすべてを読んでませんが,最初と最後にある会議の議事録・まとめは非常に面白いです.フランスとアメリカの研究はあまり相容れなさそうです.異見が常に対立している感じでした(笑).そもそも,数学教育の研究の目的・対象・方法が,国によってこれだけ異なってくるというのは非常に面白いです.

印象としては,scientific という面では,やはりフランスが数歩前を行っている感じです.おそらく,数学の教授と学習に関する現象を説明する知識の構築というところに焦点が絞られているからだと思います.研究は,知識を積み重ねていくことを前提としていますが,100 年後 200 年後に,数学教育の研究がどうなっているのでしょう.科学的でない研究は,100 年前と変わらないことをやっている可能性があります.科学的であるはずのフランスの教授学的状況理論などは,どうなっているのでしょうかね.楽しみです.新たな理論の出現によって完全に否定されるか,古典力学と相対性理論の関係のようにもとの理論の有効範囲が明確になるか,だとは思いますが.

今日読んだ中で,少々ゴシップ的ですが,面白かったところ紹介します.数学教育というよりも心理学の研究だと思いますが,米国で 90 年代あたりからやられている研究で situated cognition というものがあります.以下,フランス人の反応です.ちなみに,下の GV は,フランスの有名な認知心理学者,兼数学教授学者です.

CM : 「そんなことはフランスでは 20 年前からやられている」
GV : 「situated cognition のアイデアは当たり前だ.当然ながらすべての知識は,状況に依存し,文脈がある.」

もう一点,面白かったところ.数学教育研究における理論と実践について,フランス人軍団がそれを明確に分けるのに対し,その他はその連続性を主張したそうです.議論の中で teacher-researcher と action-research という理論と実践の両方に関わる語が出たそうですが,その際,仏人軍団の一人がこれらを痛烈に批判したそうです.その際に出たアナロジーが以下です.

NB : 「自分本人の精神分析医になれないのと同様,teacher-researcher にはなれない」

私は,数学教授学寄りなので,その通りだと思いますが,他国の研究者は「本人だから知っていることがある」と teacher-researcher が必要のようなことを言っています.この点は,数学教育研究をいかなる「科学」として扱っているかの差が出ているように思えます.つまり,経験主義的に目に見える意識していることを収集して研究とする立場と,それらは illusion de la tranceparence としてそれらを統制している理論を発見する立場です.後者の立場の人にとっては,上の発言は,言い得て妙でしょう.

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