2007年3月31日土曜日

Leinhardt & Ohlsson (1990)

Leinhardt, G. & Ohlsson, S. (1990). Tutorials on the structure of tutoring from teachers. Journal of Artificial Intelligence in Education, 2(1), 21-46.

この論文の著者は,必ずしも数学教育の研究が中心では,数学教育を題材に教師の意思決定 (decision making) などを研究しているようです.まあ有名人のようです.

論文自体は,教授 (teaching) を分析し,「よい」授業をデザインするための根本原理を導き出すというものです.雑誌自体が,AI 関係なので,AI でも使えるような根本原理ということです.論文では,数学の内容そのものに関わる教師の行為ではなく,数学の授業における様々な活動を促し,授業全体を組み立てる教師の行為(boundary marker などの meta-communication)を主な分析対象としています.データは,いくつかの基準で選ばれたエキスパート教師の授業からです.

第一印象は,数学の内容がないし,いくつか気になる点があり,あまり好きじゃない論文,でした.もっとも気になった点は,「よい授業」の存在とエキスパート教師の存在を仮定しているところです.「よい授業」に対する考え方が国や文化によって異なる(前回の記事参照)ことを考えれば,少なくとも「よい授業」は「アメリカにおいて」を付けなければ意味をなさないでしょう.そして,米国の授業があまり各国の関心を寄せ付けないとすると,分析したデータとそこから得られた結果はどの程度の説得力のあるものなのだろうか?と思いました.

その後,この論文に対する考えは,あまり変わっていませんが,色々考えるきっかけにはなったようです.主に考えたは,研究アプローチについてです.この論文では,数学教授学とアメリカの数学教育研究一般の違いが非常によく出ており,それぞれを位置づける一つの理解方法が少しわかった気がしました.もちろんこの論文自体は,数学教育研究の雑誌に投稿されたものではありませんが,この論文のような手法を使っている数学教育の研究がアメリカには多いのです.

論文では,教授過程,もしくは進行を結果的にはモデル化していますが,そのような研究結果は,数学教授学にもアメリカにも色々あります.例えば,数学教授学では,ブルソーの教授学的状況理論やシュバラールの organisation didactique がそれにあたるでしょう.米国の研究でも, scripts や ideal event などがそれにあたると思います.後者の研究手法は,今回の論文と似たようなものです.そこで,両者の研究アプローチを考えてみると非常に大きな違いがあることがわかります.もっとも大きな違いは,このような教授をモデル化する際にどこを出発点にするかということです.数学教授学はもちろん「知識」を出発点にします.知識を分析することにより,教授においてどのような行為が必要になるか考えます.そのため,導き出された結果は,知識に特有の結果になります.一方,アメリカの場合は,知識とは関係なく,とりあえず授業そのものから教師の行為から出発します.そして,なんとか教師の教授という行為をモデル化・理論化しようと努めます.この場合,拠り所を明確にするのが大変です.そのため,この論文でも取られた手法のように「よい授業」や「エキスパート教師」の存在を仮定しなければならなかったり,数学教育以外の領域の理論(言語学,民俗学,社会学,activity structures など)を持ってくる必要が生じるのでしょう.

まとめると,「知識 --- 教授」という図式(上下に考える「教授」が上)があるとすると,アプローチの方向がまったく逆なのだと思います.数学教授学は,ボトムアップでモデル・理論を構築しようと努め,米国はトップダウンで同じことをしようとしていると捉えられます.もしかしたら同じモデルに行き着くのかもしれません.個人的には,僕はボトムアップの方が好きですね.トップダウンの場合は,その論拠を示すのが難しそうです.

2007年3月29日木曜日

Jacobs & Morita (2002)

Jacobs, J. K., & Morita, E. (2002). Japanese and American teachers' evaluation of videotaped mathematics lessons. Journal for Research in Mathematics Education, 33, 154-175

非常に読みやすくスピーディに読めました.アメリカの教師と日本の教師の考える理想的な授業に対する考えを分析したものです.それぞれが非常に異なる考えを持っていることがわかり,なかなか面白いです.

研究の方法は,それぞれの国で撮ったビデオをそれぞれの国の複数の教師に見て批評してもらうというものです.データの分析自体は,scripts や米国人の好きな grounded theory などが用いられており,数学知識との関係で構築された理論は用いられていません.まあこれが数学教授学と異なる点ですが,アメリカなのでしようがないでしょう.

実験の結果で,日本の教師による米国の授業の理想的な側面が得られなかったというのは,そうだろうと思います.もちろんどのような授業が理想的であるかは,時代によっても異なり,学習そのものの理解の仕方によっても異なり,明示するのは難しいですが,少なくとも現在の日本人にとっては現在の米国の授業は理想からほど遠いのは確かだと思います.私も米国に来ていくつか授業を見ましたが,個人的な善し悪しの観点からすれば,どれもひどいなぁ,というのが感想です.授業が複雑かつ曖昧で,何をしたいのかよくわからないものが多かったです.子どもたちより数学を知っている見学者がわからないのだから,子どもがわかるわけありません.

とまあ授業に対する個人的な批判はおいておいて,論文自体は,数学教授学の範疇に入るものではありませんが,米国の数学教育研究においてよく見られるタイプのものです.数学教授学では,研究をより科学的にするために,数学そのものをより深く分析します.一方,米国では,研究をより科学的にするため大量のデータと統計的手法を用いることが多いようです(最近?).そのためか,数学そのものの分析は少なくなり,他分野(認知心理学等)の研究者でも研究できそうな印象がしてしまいます.

2007年3月15日木曜日

Simon (1995)

Simon, M. A. (1995). Reconstructing mathematics pedagogy from a constructivist perspective. Journal for Reserch in Mathematics Education, 26 (2), 114-145.
Steffe, L., & D'Ambrosio, B. (1995). Toward a working. model of constructivist teaching: a reaction to Simon. Journal for Reserch in Mathematics Education, 26 (2), 146-159.
Simon, M.A. (1995b). Elaborating models of mathematics teaching: A response to Steffe and D'Ambrosio. Journal of Research in Mathematics Education, 26 (2), 160-162.


読み始めて,特に最初の方にいくつか共感する部分があり面白そうだと思った.まあ最後の方の hypothetical learning trajectory などの教授モデルはおいておいて,それなりに面白い論文だった.

共感した部分は次の2点:
第一に,構成主義が単に学習(教授ではない)がいかになされるかという見解 (tenet) でしかないととらえていること.それはまったくその通りだと思う.いつからかどこから構成主義が変に解釈されて,教授法の一つみたいに考えられてきた.おそらくアメリカもしくは英語圏で多かったのだと思う.フランスではそんなことは全くなかった.原文を読み,当該者と議論できる環境だとそういうことは起きないんじゃないかな.実際,誰もピアジェを教育学者だとは思ってない.

第二に,フランスの数学教授学研究をある程度把握していること.これはちょっと個人的な好みになるが,やはり理論面は進んでいるので,いいことです.

いくつか思ったこと:

シェーム (scheme) に関して
長方形のテーブルを長方形の単位で面積を測る問題 (Turned Rectangle Problem) で学生がなかなか理解できなかったことが取り上げられている.この点に関しては,Steffe & D'Ambroisio (1995) が利用されるシェームが違うから当然だのようなコメントをしている.そして Simon (1995b) でそれはその通りだのようなコメントを返している.

「シェーム」の語は,このような場合に,人間が用いている知識の側面やその区画化を説明できて確かに便利.しかし,そこで僕が思ったのは,それ以上の説明はできるものではないということだ.シェームを考えれば,Steffe & D'Ambroisio (1995) の言うように,別のシェームが利用されるように既得知識を活性化すればよいということになる.確かにその通りではある.しかし,それぞれはいかに特徴づけられ,いかに区分されるのであろうか.曖昧である.シェームという概念そのものが曖昧なのである.そのため,フランス数学教授学では,Vergnaud (1991) らによって concept, conception などが数学そのものの性質を考慮して導入された.特に重要なのは表現・表記法,特に register だと思う.上の例も register もしくはコンセプションの概念を使えばもっとうまく説明できる.

構成主義的教授
Simon の行った授業はおそらく「構成主義的教授」の一つであるのだと思う.しかし,構成主義の根本原理の一つである,環境 (milieu) からのフィードバックについてはほとんど分析がなかった.なぜだろう?同化や調節については触れられていたが,どれも教師からのフィードバックに関してだったように思える.物足りなく感じた.

教授モデル
Simon は自分の授業から構成主義に基づいた教授モデルを構築している.そこで素朴な疑問は,本当にこのモデルが構成主義に基づいた教授モデルの必要十分条件になっているのだろうか,である.reflection を促すことが構成主義に基づいていることの一つとしてあげられているが,このことはこの教授モデルといかに結びついてるのかあまり明確でない.さらに,環境からのフィードバックも考慮されていない.すると,この教授モデルは,構成主義の根本原理を満たしていない学習を促す教授でも構成主義に基づいていると言い張ることができそうな感じがする.Simon が冒頭で危惧していたこと (構成主義的な教授と言い張っているものが多い) を再現しないか心配である.

Ball (1993)

Ball, D. L. (1993). With an eye on the mathematical horizon: Dilemmas of teaching elementary school mathematics. The Elementary School Journal, 93 (4). pp. 373-397.

Ball (1993) では,教授におけるいくつかのジレンマが示された.いくつか引っかかるところもあったけど,論文自体はなかなか面白かった.

引っかかった点に関して:

数学そのものの性質では,負の数の扱いのところで,演算としてのマイナスと数としてのマイナスを明確に分けていなかった.ビルディングの表現では,数としてのマイナスは,位置としての階の番号と,上への方向を持つ量としての移動分を,マイナスを用いてうまく表現できる.しかし,演算としてのマイナス(つまり引き算)はちょっと難しい.もしかすると,移動分の量のみの演算として演算のマイナスも出現させることはできるかもしれないが(要検討).

もう一点引っかかったのは,ショーンの偶数個のペアのところで,スタンダードな数学では意味をなさないようなことが書かれていたけど,4 の倍数ということを考えれば,数学的にも意味はある.2 (2k) もしくは a = b (mod 4) がどんな数か探究すればそれなりに面白いであろう.もちろんその方向に授業を持って行くかどうかは別で,教師の展望から外れてしまう可能性があるという意味で,ジレンマではあるかもしれない.

Representation (表現)に関して:

表現のジレンマに関しては,Duval (1995, 2006) の register を考えれば,現在からすれば,当然ではある.もちろん米国では今でもあまり知られていないのだろうけど.register の視点からすれば,このジレンマは数学を教えようとするときの用いられる表現に固有なジレンマである.Duval が言うように,ある数学知識を獲得するためには最低2つの register が必要となってくる.しかしそれぞれの register においては,与えることのできる情報や可能な操作が異なり,それぞれは対応する数学概念の側面が異なるのである.

2007年3月7日水曜日

Postulate って?

アメリカの高校数学では,axiom (公理)と言う語は出てきません.その代わり,postulate という語が頻繁に出てきます.postulate は,日本語では「公準」で,公理と同じだろうと思っていたのですが,どうも違う感じです.というのも,教科書にはやたらと沢山の postulate が出てくるのです.さらに,高校の数学の先生は,postulate は「明らかで証明のいらないもの」程度の認識しかないのです.

例えば,ユークリッド幾何学の「平行線の公理(公準)」が postulate と呼ばれるのは普通だと思いますが,三角形の合同条件も三辺相等などそれぞれの条件が postulate と呼ばれています.合同条件は明らかに公理ではありません.「合同」を定義したらそれぞれの条件を導くことができます.言ってしまえば,定理です.しかし,アメリカ(ミシガン)では,それぞれをその学習段階で証明できないからか postulate と呼びます.

もしかしたら,証明できないものでも,ほかの証明の道具として利用するために axiom ではなく,postulate と言う名称を用いているのかもしれません.

この postulate の利用にはもちろん様々な弊害が生じます.例えば,平行線の公理のように,本来本当に公理であるものがなぜ公理として証明なしで利用するのか(例えば,ユークリッド平面を規定するなど),その理由が忘れ去られてしまいます.なぜならば,ほかの postulate の利用の理由が単にその学習段階で証明できないことにあるからです.

アメリカって変なの.